仕事、結婚、育児、別離と歌集の頁を捲るごとに個人史が展開していく構成になっている。人生の岐路に詠まれた歌も、日常生活のなか詠まれた歌も等しく頁に並ぶさまをみて、映画のフィルムようにも思った。
マイワシに煮汁をかけて火をとめる生きることとは穢れゆくこと
寒鰤を箸にはさみて聞く君の企画をとおす術のあれこれ
冒頭は職業詠から始まる。「監督」や「台本」という言葉が他の歌にあり、メディア関係の職に就いていたのだと推測できる。また、ハードワークであったことも察せられる。そのなかから二首、業界・業種に限らない歌を引用した。一首目はマイワシの煮汁の濁りをみて、主体の生きる上での身体、精神性を投影している。下句はメアリ・ダグラス『汚穢と禁忌』おける異端性も包含する「穢れ」のようである。次の歌を読むと食と職の比喩関係に特長があることに気づく。二首目は君の話を聞きつつ、注意は幾分か寒鰤に注がれる。つまりそこまで君の話に乗り切れていないということであろう。自宅や飲食店などで食をとおして、職を相対化する自我の在り様があり、歌がなされている。
義母の煮るおからを提げて墓までのなだらかな坂のぼりゆきたり
わたくしが潤一さんの長男を産みましたとぞ先祖に告げむ
結婚後の出産も印象に残った。一首目は煮たおからという、日本的かつ家庭的な料理が義母の存在を物語っている。墓もまた先祖代々という父系の血縁の象徴であり、この二点から制度的な家が濃厚な歌といえる。否定的に捉えているわけではなく、「なだらかな坂」という先には何か目的地あるような下句がある。二首目は直接的な歌ゆえに覚悟のようなものがある。さて、主として女性が育児や家事を担うことは家族主義といわれ、女性はそこからの解放である脱家族化、脱商品化を図るというものが、今日のあるジェンダーの論点である。そのうえで、引用歌を掲載することは、ある思いがあったのであろう。社会学に基づく理知はあまねく生活に適用されるわけではない。また、マクロな視点(テクノクラートといってもいいかもしれない)においては脱家族化され、家族主義への関与を自らコントロールできるのは理想ではある。一方で、ミクロな視点(同様にストリートといってもいいかもしれない)においてそうした脱構築は容易にはできず、またそれが最適解という訳でもないだろう。人生といううねりは複雑なのである。引用歌は映画の一場面のような鮮烈さがある一方、家族を理知的に解釈する昨今の風潮に対して、或るリアリズムがあるように思えた。
酔っ払い同盟なるは「いかに酔いつぶれしとて批判せぬことを誓う」
「なんでもすぐ忘れちゃうでしょ」なんでもよく覚えてる子が寄りきて言えり
一首目の気の置けない仲間を酔っ払い同盟と表現するのは気持ちがいい。二首目は、一首目の歌と呼応するように子の歌がある。一首目だけでもいいのだが、二首目も併せて読むと主体の人間的存在感に厚みがでる。子の存在は歌集または人生という主題を立体的にしている。
珈琲を一緒に飲みたい ワインとか言わないからさ 君に会いたい
先の歌でも述べたが、直接的な歌は説得力がある。抒情が定型に乗るかどうかは、実感の深さに因るものが大きいと思う。また、情に任せきりでも定型から溢れてしまう。鑓水の歌は人生という主題について深く感じ入り、それを十分に歌にしていると思った。
焼きたてのチーズケーキを切り分ける 猫を飼うってどんなふうだろ
先の美点は日常の気づきにも生かされる。焼きたてのチーズケーキと猫は、飼ったことのない人にとって、たしかに形態も香りも似ている、ように思える。チーズケーキを切っているときにそんなことを思いつき、だがしかし、実際はどうなのだろうという歌。どうなのだろう……。