視線の質量 川野里子歌集『硝子の島』を読む

  茂吉のなかにスマトラオホコンニャクは花ひらき恍惚として戦争詠ふ
  大日本帝国の兵ジャングルにスマトラオホコンニャクすなはち死体花見き
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 『硝子の島』は川野里子の第五歌集。多様な時間や幅のあるモチーフを盛り込み、母親の歌や震災詠にも時空の広がりを感じる歌集である。五章に章だてされており、一章目の「おほきな花」の最初の連作から引用した。スマトラオオコンニャクはインドネシアスマトラ島に自生する花で直径は1.5メートルに達する花。腐臭により甲虫を呼び繁殖するという異様な花である。この大きさや異様さを一首目のような茂吉のエスに喩え、恍惚として戦争を詠うという茂吉のエスと、戦時中の異様さを表現している。一方、二首目のようにスマトラオオコンニャクの腐臭を放つ性質に着目し、兵士が生の死と接するグロテスクさをスマトラオオコンニャクに託して表現している様は、対象に多角的な視点でメスをいれていく川野の姿勢なのだと思われる。
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 ‎ 飛行機は旅にたましひ現はさむあの一機かつて西行なりき
 ‎ 聖ザビエル右手をここに遺したりあるいは厳しき制止のために
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 ‎一首目は巨体な無機質な飛行機だが、かつては西行であったという。飛行機に西行を接続させるのは大胆かつ絶妙な飛躍である。聖ザビエルの右手が、まだ静かに警鐘を鳴らしているという歌も、史学と社会批評的な視点があり、広がりのある歌である。多様な題材、抒情が織り交ぜられているのも読んでいて楽しくなる。当たり前のようで当たり前でないことだが、モチーフが多様であると、表現や抒情も多様になるのだ。‎
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 ‎ 硝子つくる島は硝子の音がせりレース編む島は糸引く音す
 ‎ 格納容器 罌粟の蕾にしまはれてゐるのは未知の花なり怖し
 ‎ 河童橋は架空の重さに耐ふる橋 河童のほかは通るべからず
 ‎ 本当に生まれたいかと問はれたる人間をらず満員電車に
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 さて、本歌集を読む中で特徴があると感じたのは世界との距離の取り方と、テーマ性である。一首目は連作「硝子の島」から、二首目は「罌粟《ソムニフェルム》」から引用した。両方とも第二章「硝子の島」に所収されており、第二章は旅行詠・震災詠など、国や地域を扱った大きなテーマの歌が多いように思える。その中にテーマ性の高い連作が配置されている。三、四首目は第三章「河童抄」から引用した。いうまでもなく芥川龍之介の『河童』を材にとり、芥川龍之介の作品同様に社会風刺の視点が盛り込まれている。『河童』の世界観を自らに引きつけることに成功しており、いうならば現代的に、川野作品にチューニングされている。河童橋は都内に業務用厨房用品販売店が立ち並ぶ地域で、ベッドタウンやオフィス街ではない。一軒ぐらい河童が経営する店があってもおかしくないような街並みである。そしてそのネーミングで訪れる人々の多くが、河童の存在について考えるだろう。その一人ひとりの奇想が質量をもち河童橋にのしかかるイメージが思い起こされる。また、四首目は皮肉のきいた歌で、河童のように生まれることへの選択があるならば、満員電車には人はいないだろうということである。川野が世界をみるときに、モチーフや文学のフィルターを通して、考察していき、作品にしていくという方法論が章立てや、連作のテーマ性の強さから示唆される。また、本論で引用した歌からも批評性の高さが垣間見れる。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、批評とは「豊かな文化が築き上げられるためには、時代と場所を問わず公衆の健全な批評意識が不可欠であり、(略)」とあり、批評性と文化は親和性が高く川野の作品の両輪とも考えることができる。そして、先のような批評性は突き詰めると個人的なものであり、文学性と並行して考えてよいのかもしれない。

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