山花の咲く、「かりん」2018.6を読む

 「かりん」2018年6月号は、40周年記念号や記念大会などの大イベントののち祭りの余韻のある雰囲気だった。本号から新たに「山花集」という特別欄が開設された。
「かりん」では入会してまずは、III欄に所属する。そして、入会年や歌の出来等などで昇欄していく。II,IA・IB,馬場欄・坂井欄といった具合に。
 その中で、2015年に開設された若手が比較的多い「若月集」、若手からベテランまで揃っている「かりん集」がいままであった。そして今回、ベテラン対象の「山花集」が開設されて、若手・中堅・ベテランの特別欄ができたということになる。本文では何首か鑑賞していきながら、それぞれの欄を味わいたい。

  夜に手を引かるるごとく花水木つづく夜道を帰りきたりぬ /辻 聡之「かりん」2018.6,かりん集
  タグボートに曳かれ静かに離岸するアビジャン港は象のにおいす /檜垣実生 同
  さいぼうのとかくしずかなコンビニの恵方巻のだんめんささやく /中山洋祐 同
  はみ出した「ん」の存在を考へるセミナーにゆく真面目な顔して /吉岡健児 同
  のりたまと綽名に呼んだ遠き日の友も五十を疾く超えにけむ /細井誠治 同

 辻の作品は春の情景を材にとった連作から。夜が擬人化されていて、幻想的で映像的な歌。花水木もエロスを感じさせる。檜垣作品は象のにおいが面白い。アビジャンはコートジボワールの都市で、都会なのだが、それでも象のにおいがするらしい。「アビジャン港に」ではなく「は」なのが、アビジャンこそ象のにおいがすると強調されてて、説得力があった。中山作品は破調と、かなでぬめぬめとした文体で、しかもコンビニの蔵しているさいぼうが静かなので、もう死んでしまったハムや、規格化されてしまった人間を想起すればいいのだろうか。歌の意味も不穏である。超現実的な雰囲気が今月は際立っているように感じた。吉岡、細井作品は生真面目な滑稽さと、ヒューマニズム的な歌だ。読後感がいいのはこのような作品かもしれない。

  年下の子らのびやかに発言し選定されない庭のような午後 /中武 萌「かりん」2018,6,若月集
  台湾が遠くなりたり祖母はまだ雨ばかり降るイーランに住む /黄 郁婷 同
  鉢植ゑにみづしたたりてぼくたちの遷都の夜を木は眠りゆく /鈴木加成太 同
  バレンシアにトマトを投げる祭りありそのトマトほど消えし院生 / 上條素山 同
  フランケンシュタイン博士が人間をつくる前段階として オカピ /川島結佳子 同
  パレットは原色ばかり「少し白を混ぜてごらん」と教師は言いき /貝澤駿一 同

 中武作品は「のびやか」、「選定」、「庭」などが縁語になっており麗らかな雰囲気がでている。黄は台湾からの留学生。現代的な望郷の念や、祖母への個人的な思慕どが混じり合っている。鈴木さんは「かりん」に入ったのかと驚きながら、自室の一室の場面だが、遷都や木という言葉の斡旋が、世界を広げている。上句の描写もいい。上條作品はあまり大学院に触れられてこなかった気がする。比喩が巧みだが、トマト祭りのトマトになってしまっていることが悲しい。飄々としている歌もいいが、こういう影のある歌もこれから作ってほしい。川島作品、フランケンシュタインはゴシック小説というだけではなく、かなり文学批評的な含蓄があるらしい。関連書籍もたくさん出ている。死体を集める前にオカピで実験したのだろうが、生物学的だけではなく、心理社会的にも猥雑な人間の前段階として、そうした部分がシンプルであろうオカピを選んだというシニカルな目線がある。貝澤作品は美術の授業の一幕。高校あたりを想起するといいかもしれない。若いゆえに強いもの(原色)を好むが、余裕や余白がこれからは必要であろう。絵だけではなく生き方にも、少し白を混ぜてごらんという提案は、すっと少年の耳から消えてしまうかもしれないがいつか、真意に気づくときがくるかもしれない。

  マダニと肉そしてセツキシマブにある共通抗原は悪魔の鍵穴 /久山倫代「かりん」2018.6,山花集
  スリープしたるパソコンの上に暖をとる猫の姿も浮世のかたち /寺井 淳 同
  勤め人せわしく行き交う駅前に非動態保存の蒸気機関車 /渡辺泰徳 同
  「漕ぎ出でな」と額田王のたまいぬ柱時計は円かくばかり /川口良子 同
  死装束死化粧され若返りし母に違和感ありぬいささか /田中穂波 同

 久山作品、マダニにより引き起こされるアレルギーは、肉やセツキシマブという植物ひも存在する。抗原と抗体は図解されるとき、抗原に対し、抗体が鍵のような形をして飛んでいく様子が示される。その様を歌にしたのだ。セツキシマブは抗がん剤に利用されるがマダニな肉は卑近な事物だ。そうしたものにも悪魔の鍵穴が潜んでいる。寺井作品は猫と生活するほのぼのとする一場面。浮世という斡旋でつい浮世絵で、猫が擬人化されているものを想起したりしたのだが、パソコンの上で丸くなる猫が浮世でありうつしよなのだろう。渡辺作品は新橋だろうか、オフィス街の代名詞にも思える新橋に機関車が展示されているのだが、理由は知らない。ただ歌のように忙しく働く人々と、機関車の対比は確かになにか示唆しているようでもある。川口作品は〈熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな 額田王『万葉集』〉の本歌取り。月を待っているが潮が適ってきたので出発しようという和歌だが、川口の歌の柱時計は回ってばかりで出発できないのである。が、額田王の歌を想起したということで近々悠々と漕ぎ出づのだろうか。田中作品、多死社会を目前に終末期医療は医療の重要な位置をいまや占めている。そのなかでエンゼルケアも進んでおり、看護師対象に勉強会が多くなされたり、書籍も多く出版されている。実際は病いの気配を消すために少し厚く化粧を施すなどするのであろうが、丹念になされたエンゼルメイクは私生活と乖離があるのであろう。結句のいささかはそうした、変化について考えながら留保している、含蓄のある沈黙であろう。
 特別欄は固定メンバーではなく毎号選がなされる。ゆえに励みになったり、今月の詠草はちょっと力が抜けてたかなど反省したりする。若月集は設置されて三年経つが、川島さん、上條さん、貝澤さんと常連メンバーがメキメキ力をつけている。そうした、適度な緊張感がレベルアップに繋がるのだろう。また、歌会になかなか出席できない人にとってはひとつの指針にもなるかもしれない。結社のなかでどのような歌が読まれているのかが見開きでわかる。これからも若月集にはいるよう頑張りたい。

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