ユーモアの強さ 有沢螢歌集『シジフォスの日日』を読む

  今日手術しなければ死ぬと言ひ切られ夜桜の下《もと》運ばれてゆく
  パジャマ姿の十三人の子供たちワルツを踊る武満徹の
  麻酔覚めまづ聴覚がよみがへり夢と現《うつつ》は一本の線

 読み始めて大変な始まり方だと思った。私はあとがきから読むのだが、作者は髄膜炎を患われ生死をさまよい、長期入院および入退院の繰り返しをしているという予備知識はあったが、壮絶な始まり方だ。一首目は栞文で穂村弘が昨日までの夜桜と今日の夜桜はまったく別のものになってしまったと鑑賞している歌。視点という観点で考えると、ストレッチャーで救急搬送されていくなかで、ふと冷静に夜桜をみる〈われ〉がいる。緊急事態のなかの一瞬冷静な感覚を読むことで、その後の重症さを暗示しているのだ。二首目は詞書に「ICU幻想Ⅰ」とあり、意識が混濁するなかでみている幻想を詠った作品。作者の過去の記憶が去来するような歌が並ぶが、夢のように破綻していて、それでいて単なる夢ではなく、意識が低下しているという生死の境という背景があるとなると、記憶というよりあの世とこの世の境でもあるのかもしれない。三首目は全身麻酔を体験したことのある人はわかるかもしれないが、聴覚から感覚が戻り、徐々にその他の感覚が復旧していく感覚がある。重症化した髄膜炎のオペ後ということで、未知の感覚だが、一本の糸をたどって戻ったというぎりぎりの感覚だろう。

  ファントム・シンドロームてふ幻の手足も数へ蛸のごとしも
  チャップリン髭生えたやうな違和感に声をあげれば羽虫なるらし

 独特の感覚の歌もある。ファントム・シンドロームとは幻肢のことか。時に痛みも伴うようで、脳科学者のラマチャンドランが鏡を使用し、知覚のゆがみを訂正すると幻肢痛が緩和するという研究が「知覚は幻 ラマチャンドランが語る錯覚の脳科学、日経サイエンス、ニ〇一〇年五月号」で紹介されていたが、みずからの知覚の歪みや、蛸が空腹により自らの足を食べるという話もイメージするといいかもしれない。違和感だけではなく、蛸にまで詩的飛躍させると、みずからを食べるという気味悪さが、さらに違和感を際立たせる。二首目はユーモラスに感覚を詠っている。チャップリンは喜劇王であるし、髭を生やしたような違和感という奇想も面白い。

  動き出せば白杖指示する点字ブロック ガタンゴトンと車を揺らす
  排球のボールのごとく複数のヘルパーの手にパスされてゆく
  入れかはり立ちかはりするヘルパーが作る三食全力で喰ふ
  革命の犠牲者のごと高高と掲げられゆくバスタブまでを

 介助される現場の歌は明るい作品が多い。意図的に明るく詠っているのか、それとも人とのふれあいが希望でもあるのかもしれない。一首目は入院中の外出の場面である。下句のガタンゴトンは電車につくオノマトペだ。連作を読むと花見にいくことがわかるのだが、車椅子で移動するにしても電車で遠出をするように楽しみなのかもしれない。二首目は自宅での療養生活の現場だ。ヘルパーも制度を利用する以上は、部分部分の支援がパッチワーク状になされる。〈排球のボールのごとく〉の比喩は、忙しないのだが、緊張感があり真剣な雰囲気がある。三首目も在宅生活の大変さと生の躍動が同居している。四首目は上句がゴシックで、犠牲者という重い比喩なのだが、むしろそのように恭しく持ち上げられるというユーモアな歌なのではないかと読んだ。下句の倒置法がオチになっている。日常生活や社会生活において、後遺症により支障がでてしまっているが、悲観的にならず、ユーモアで現状を超克しているところに強さを感じる。

  聖体《キリスト》はわが消化器の暗闇を照らし果てまで嚥下されゆく
  早春のデヴィッド・ボウイ回顧展急ぎ行かばや車椅子にて

 さて、本文では疾患やそれにまつわる介助の話が多くなってしまったように思える。それ以外にも、一首目のような宗教的なモチーフの歌や、二首目のような人間的な歌が歌集全体を厚くしているように思った。

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