龍になる 日置俊次歌集『地獄谷』を読む

 本歌集は一貫して台湾での生活を詠んだ歌でまとめられている。あとがきによると台湾大学で研究することになり、その下見で台湾に行ったとある。あとがきによらなくても、「かりん」で日置さんの名前の上に台湾の地名がしばらく出てたので、台湾にいらしたことは知っていた。

  「手紙《ショウジー》」とはちりがみのこと「人間《レンジエン》」とはこの世のこととおさらひ始む
  「手紙《ショウジー》」ではなく「衛生紙《ウェイシェンジー》」といふらしいトイレでひとり頷いてゐる

 手紙がちりがみで、人間がこの世のことと日本語との意味的な差があるが、そこに詩性を感じる歌。手紙がちりがみになるのは、俗っぽくなり面白く、人間がこの世というのは哲学的だ。そういうなかで、トイレに入ったときに手紙は衛生紙と言われていることを知る。ちりがみではなく、トイレットペーパーは衛生紙というのだろう。手紙で尻を拭くのは気が引けるが衛生紙ならふむふむと、納得しているところが面白い。

  母親の赤き怒声す三度、四度、「ジャンハオ!」と同じ言葉が響く
  「站好《立ちなさい》」とふ重き声なりひえびえと畏怖覚えたり母のその声
  この声を聴くためわれはタイペイまでやつてきたのだ。窓を開けたり

 一首目が先に出てくる。台湾語を知らない読者はジャンハオはわからないだろう。作中主体も急に聞こえた声に意味をとれず、音として聞いた感覚が、読者も追体験していることになる。二首目で〈立ちなさい〉のルビが振られてジャンハオの意味がわかる。そのとき〈畏怖覚えたり〉で作中主体や読者は心寄せをすることができるのである。三首目で市井の人の声を聴くためにやってきたのだという。学問や観光ではなく、生活を見にきたという国際感が出ている。一首目、二首目のレトリックは短歌においてはあまり見たことがなく、読んでいて面白く思ったし、臨場感が出てくる。

  ドラゴンの燃ゆる鱗と呼ばれたる赤き実を胸に抱きて帰る
  甘露なる「当たり」がまれにあるといふそれまでいくつ龍を食むべき
  孤を好む海龍われの坂登る尾をすり抜けて群衆走る
  雲龍に会ふためわれはここに立つ行天宮のまばゆき庭に

 本歌集には龍を材にとった歌が多く出てくる。廟、ドラゴンフルーツ、雲、ポケモンGOで龍が登場するのである。一首目はドラゴンフルーツだ。とにかくドラゴンフルーツはたくさん食べているのだが、二首目を読むと自らが龍になるために食べているようにも思える。赤いドラゴンフルーツと白いドラゴンフルーツがあるらしく、味もまれに甘いものがある、食べすぎるとお腹が緩くなるという不思議な食べ物だ。三首目はポケモンGOが題材の連作からの引用。海龍が公園にでてきて、老若男女殺到するようだ。海龍はカイリュウだろうか、ギャラドスだろうか。歌集の雰囲気的にはギャラドスであってほしい。自己の身体感覚は尾をふくめたもので、龍のように長い。孤を好み、思索して歩いている場面と読むと、思考の残滓のようなものが尾を引いているのだろうか。四首目は雲も龍であるという壮大な歌だ。内省的な龍が続いたが、一気に壮大な龍が現れた感覚だ。

  イーリンイーを見れば曜日は分かるわと教へくれたる学生がをり
  月は赤、火は橙で水は黄、木は緑で金は青なの
  イーリンイー紫に燃ゆ冬なれど蒸し蒸しと風のなき土曜なり

 以上の三首目は一首の独立性が低く、また前後でつながっている歌である。日置は連作において、こうした意識の流れに影響を受けた手法を取り入れることがあり、歌集前半の台湾に来たばかりの連作においてもそれは指摘できる。こうした試みをしている歌人は寡聞にして知らず、本歌集を読む楽しみでもある。
 本文ではモチーフや技術的な読みが多くなってしまった。しかし、以下のような歌に〈われ〉が出ており、惹かれたので引用する。

  日本語のラベルのままのシャンプーとリンスを買はむ薔薇のかをりの
  乾燥機に入れたるマフラーごはごはに縮んでフェルトのごとき板なり
  茅いろの雌犬をりて愛犬のルメに似てゐる情なき目が

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