秋の読書3冊

  水の気配 三遊亭園朝著『真景累ヶ淵』を読む

 三遊亭園朝著『真景累ヶ淵』が角川ソフィア文庫から再販されており、表紙が美人画で妖艶だったものだから所謂ジャケ買いをした。シンケイカサネフチと読むようだが、まず読めないだろう。Wikipediaによると真景は神経と掛けてあり、怪談というよりは、神経症や因縁がキーワードになってくる。一八五九年の作と言われており、夢野久作や江戸川乱歩よりずっと前の作品にも拘わらず、内容に古さを感じさせない。以降の小説に影響をみることができ、本作が幻想推理小説の古典と言っても差し支えないと思う。
 長編作品だが、各登場人物が関連しており大河小説のような壮大さがある。前半は幽霊というか呪いの事の発端が描かれ、後半は敵討ちの物語に収束していく。呪いは超自然的なものではなく、あくまで特定の人物の精神症状として描かれ、それよりも因果が大きな力をもって物語の底を流れている。時代背景的にダメな男が多くでてきて、酒・女で遊びほうけて、妻子を泣かすのだが、妻も呪いで顔面半分が腫れてしまってお岩さんのような容貌になって、病身である。よくもダメ男がのさばるのが納得いかないのだが、きっと落語を見終わったあと観客は「どうも新吉の野郎が気にくわねぇ」など話すのであろう。落語の脚本を読んで楽しむのは聴いて楽しむのと少しギャップがあるのかもしれない。読書はどこか素面だ。
 時代的に近代文学より前の作品だが、美文で登場人物や風景の描写が繊細だ。幕末の作だけあって江戸の町人文化や、谷崎潤一郎が『陰翳礼讃』で述べたような影の美学も感じられる。水の都といわれるだけありお隅という女性が夫敵討ちのために、雪の降る夜に川を渡る場面や、花車という角力が追い剥ぎを沼に放り込む場面など、水辺がよく出てくる。登場人物の心情の演出にやはり一役買っており水の流転の相がまさに人情といったところだろうか。

  水の都
神経に幽霊はありと三遊亭円朝言いきわれも幽霊
東京は水多き街おいはぎを沼に放るとう落語ありけり
雪の夜の川を渡りて匕首を光らすおみなも江戸にありけり
一筋のひかりが漏れる家にいる女は編み物して物言わず
県道に土埃たつ埼玉は海のなき故郷われは散歩す
日没後目立ちはじめる大型のドラッグストア三店舗見ゆ
うらめしく思わるる筋もあらずしてアロエを育てる独り身われは

  死の階段はゆっくりと 森鴎外著『妄想』を読む

 『妄想』は鴎外が洋行帰りにいろいろ心に浮かんだことが書かれている。洋行帰りとなると、医学だけではなく、都市計画や食生活にまで助言を求められるらしい。今は専門分化して、なおかつ先進国でもあるため、洋行=万能エリートのような神格化はされないが、まだ明治はそのような傾向もあったのだろう。そこで、自称保守主義者として日本の生活を守ったのは、文学や哲学を身に着けていたため、当時は最新だった西洋の文化についても、相対的にみることができていたのだろう。

  若い時には、この死といふ目的地に達するまでに、自分の眼前に横はつてゐる謎《なぞ》を解きたいと、痛切に感じたことがある。その感じが次第に痛切でなくなつた。(中略)それを解かうとしてあせらなくなつたのである。

 また上記のような記述もあり鴎外の年齢とともに、落ち着きを見ることもできる。むしろ、自在の境地といってもいいかもしれない。鴎外は観潮楼歌会などにみられるように理知的に取りまとめ役であった印象を受けるが、劇的な人生を送っていた作家たちをみて、鴎外自身もやりきれないところがあったのだろうなどと想像すると、鴎外が微苦笑するようである。所々アフォリズムが引用されており、鴎外が普段何気ない生活の中で何を考えているか推察でき、普段のとめどない考えの中でも哲学を引用するくらいの底知れぬ教養を感じさせる。

  伊東静雄詩集『わがひとに与ふる哀歌』を読む

 伊東静雄は静かな詩が多い。激情もなければ、月に孤独を託すこともない。ひとりで静かに故人を偲んだり、思索したりするような詩だ。抒情するといわゆる〈われ〉が出てくる。それさえ避けるようにして伊東は詠う。

   同反歌

 田舎を逃げた私が 都会よ
 どうしてお前に敢て安んじよう

 詩作を覚えた私が 行為よ
 どうしてお前に憧れないことがあらう

 詩は詩を詩にすることが、短歌以上に多いように思う。メタフィクションというのだろうか、いずれにせよ定型がないため、小説などで試みられたレトリックを輸入しやすいということもあるだろう。この詩は詩に対する憧れが反語により強く表現されている。また、都会に対する厳しい感覚もある。この詩を作ったときの詩に対するスタンスの詩と読める。歌人もこの詩には共感できるだろう。

   寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ

 耀かしかつた短い日のことを
 ひとびとは歌ふ
 ひとびとの思ひ出の中なかで
 それらの日は狡《ずる》く
 いい時と場所とをえらんだのだ
 ただ一つの沼が世界ぢゆうにひろごり
 ひとの目を囚とらへるいづれもの沼は
 それでちつぽけですんだのだ
 私はうたはない
 短かかつた耀かしい日のことを
 寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ

 本詩集の最後の詩である。ここでもメタフィクショナルにかつ、ストイックに詠われている。しかし、モチーフは沼なのである。輝かしい日々も沼で、ちっぽけな日々も沼なのだ。このようなところに、ニヒルな感じもして、また美麗な言葉に対してやや否定的なニュアンスを醸す。しかし、最後に〈寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ〉とどんでん返しがくる。私のけふの日は輝かしく(ように見え)、彼らが輝かしい(ように思う)というのだ。その輝かしさに身を置きながら、心はそこにないような孤独が示唆される言い回しであるが、そのすかし方が伊東なのかもしれない。

  

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