とどのつまり 岩田正歌集『柿生坂』を読む

 岩田正を形容する言葉に多くヒューマニズムという言葉が用いられる。ヒューマニズムは人間主義などと日本語に訳せられるが、文脈によっては必ずしも肯定的に用いられない厄介な概念というのが筆者の認識だった。寺井淳は「そこには人間がいる 岩田正の歌人論―『釋迢空』『窪田空穂論』『塚本邦雄を考える』」(「かりん」二〇一八年十月号)で『釋迢空』において、迢空に愛着と執着、偏執的な人間愛があることを岩田が指摘したことを紹介し、岩田が歌を通して〈人間〉を見るとはこういうことであると述べている。坂井修一は同号で岩田を「無類の歌好き、無類の人間好き」、「自身の中においては人間の弱さを厳しく糾弾し続ける人でもあった」と述べている。こうした論から岩田のヒューマニズムの輪郭がみえてくるのだが、筆者は「人間好き」とは何かという壁につき当たった。しかし、実際に歌を読んでいくと、数あるうちの一つの答えであろうが、それは人の営みではないかという示唆を得た。

  古本屋出れば現代の風吹きてミニスカートと髪を靡かす 『レクエルド(想ひ出)』
  列車にてくるまにて見る景よりも眼凝らし老いてみる景ふかし 『柿生坂』
  灯油売り携帯電話《けいたい》売りと売りをつけ呼べば風俗古めきてみゆ

 岩田の作品は都市風俗を切り取った歌が多い。一首目は古本屋とミニスカートの対比が鮮やかだが、谷川俊太郎の「生きる」の〈(略)生きているということ/いま生きているということ/それはミニスカート(略)〉を下敷きにしているのだろうか。そうするとミニスカートと髪が靡くという瑞々しい光景は、現代であり、生きるということなのだろう。二首目は列車に乗るにも鈍行を好む岩田だが、さらにおそらく歩きで眼を凝らしてみる景に深みを感じている。歌の中で〈見る〉と〈みる〉が使い分けられていることからも、視覚だけではなく五感や、さらに自分の深部でみるのだということなのだろう。三首目は携帯電話ショップという今様の題材を詠み込んだ歌だが、ガソリンスタンドにも携帯電話ショップにも、〈売り〉をつけることで人間の営みである風俗に還元させている。一首目を読むとヒューマニズムはバイオフィリアに近い感覚なのかもしれないと思えてくる。同号座談会では岩田はニヒルや毒に警戒感を持っていたというエピソードがあるが、ニヒルはネクロフィリアに通じるところがある。三首目の都市風俗に対する目線も、人間の息遣いを探る目線であり、生命への愛である。さて、人間が好きとは何かという問題提起から本文は始まったが、風俗への愛だけではとどまらない歌もある。

  昼はソフトボールにはしやぐ子らのこゑ夜は死者眠るやすらぎの森
  昭和びと天皇も好きとふケチャップライスなつかしチキンライスの富士山

 岩田は墓や死者を詠む歌も多いが、死者なのに息遣いを感じる。先程バイオフィリアとネクロフィリアを援用したが、歌にはバイオフィリア的な死者が登場する。これはフロイトの西洋的死生観と、日本的な大乗仏教的死生観が異なるため一概に同じ土俵で考えることはできないが、生者と死者の分け隔てない心寄せは老境の極みというか、独特だと思った。二首目は極めて庶民的なチキンライスの富士山の歌だが、天皇が登場する。チキンライスの富士山と天皇の組み合わせに温かみがある。このようにヒューマニズムは死者にも、また天皇にも及ぼすことができるのだ。この裾野の広さを考えると、ヒューマニズムは人間が滅亡しない限り有効な思想なのではないかと思えてくる。
 さて、岩田先生の作品は先輩方が多く論じておられ、私はその果実にあやかり作品世界を味わうにすぎない。そして、私は岩田先生とお話したことは数回しかない。そのことが残念で、岩田先生について考えるときに心に空白がある気がしてしまう。しかし、『岩田正全歌集』に以下のような言葉が帯にあり、救われた気がした。

私の一首は、私の性格・考え・感情など、私のもつもののひとかけらと言ってよい。それが歌集となり、全歌集となることで、私の性格・考え・感情などが総結集し、いわば私の「生」の全体像を示したものとなる。そう期待して、この全集を私は編んだ。

 
 

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