ポケットに角茄子を 寺山修司展吟行記

 二〇一八年十月十四日にかりんの若手で若月会吟行に行った。場所は神奈川近代文学館で、特別展「寺山修司展 ひとりぼっちのあなたに」を鑑賞したあと、赤レンガ倉庫群のオクトーバーフェストに参加した。
 寺山修司は『寺山修司青春歌集』を読んだことがある程度で、天井桟敷やその他の文筆活動は知らなかった。また、「チェホフ祭」で短歌研究新人賞を受賞した馴れ初めなども何かの評論で読んだ程度だった。まず寺山修司展の力が入っているところは、神奈川近代文学館周辺の庭園にも寺山の短歌が飛び散っていたことだ。煉瓦に初句、ニ句……と言葉が書かれていて、並んでいるなど、館内に入りらない言葉の量だ。言葉の錬金術師と呼ばれた寺山の世界観の広さが伺える。そんな寺山は、生前馬場あき子(先生)と親しかったということだが、馬場先生と寺山のエピソードをみると、時間のズレを感じてたまにしっくりこないときがある。おそらく寺山は伝説になり、馬場先生は生ける伝説だということだろう。そんな寺山展だが、内容に関してはまずは公式Websiteの紹介文をみてほしい。

寺山修司(1935~1983)が47歳で亡くなってから35年が経過した。本展は、寺山の秘書兼マネージャーをつとめた田中未知氏が長年収集・管理してきた資料を中心に構成。 類いまれな才能が生み出した多様な表現世界を重層的に紹介し、寺山修司とは何者であったのかを探る。また、あらゆる活動を通して寺山がこだわり続けた「言葉」を会場内外に掲げ、その伝えたかったことを繙く。精神的、社会的に孤独を抱えながら現代を生きる我々へ時空を越えて発せられるメッセージを、この機会に受け取っていただければ幸いである。
(神奈川近代文学館、特別展「寺山修司展 ひとりぼっちのあなたに」、www.kanabun.or.jp/exhibition、最終閲覧日2018.10.15)

 上にあるように書簡やノートの展示品が多く、様々な活動を広く深く紹介している。また、詩句がところどころ視覚的に配置されてていたり、映像作品が流れていたりと、現代アートの展覧会のような趣もあった。他の客のなかには「文字が多い」とか「こんなん読んでたら頭がおかしくなる」、「まだ生きているんじゃないか」などという言葉を漏らしている人もいた。たしかに寺山は俳句、短歌、自由詩(視覚的な詩もあった)、放送作家、エッセイ、劇団と多岐にわたっているが、殆どが文字だ。この膨大なエクリチュールの巨人に、ひれ伏してしまうような迫力があった。そして、まだ生きているというのもまんざら間違いではない。作品をみると日本の延々と培われてきた土俗的なモチーフが、怪しげな生命力をもって押し寄せてくる。そんなエネルギーを浴びていると物故者な感じはしない。
 オクトーバーフェストはウィキペディアによると、「新しいビールの醸造シーズンの幕開けを祝う祭り」とある。拡大していって、いまはシーズンごとの祭りというところだろう。赤レンガ倉庫群にビールやソーセージの屋台が出店しており、ドイツの民族衣装ディアンドルを着た女性が、売り子をしている。バケツのようなジョッキや、物干し竿のようなジョッキがあり、下戸の私にとっては巨大なビールはもはやオブジェ以外の何物にも見えない。ソーセージやピザ、ザワークラウトは青空の下で食べるのは気持ちがいい。なお、筆者はキリンのノンアルコールビールを美味しく飲んだ。
 吟行なので歌会は欠かせない。横浜のワールドポーターズのフードコートで歌会をする。歌会までのイベントが盛りだくさんで歌会は……いいかな、という雰囲気はあったが、頑張って決行。寺山修司展がメインということもあり、寺山の歌がいくつかあった。寺山の文学世界をオマージュした作品は、作者の奥に当然寺山がいるわけで、寺山は尚作品を作り続けているということもいえるだろう。言葉の錬金術師が時空を超えて歌を作っているなんておもしろい。寺山修司展は11/25までとのことで、ぜひ行ってほしい特別展である。

  ポケットに角茄子を
雨粒をおもてにうけて伸びあがるレイアップシュートわれは見惚れる
角茄子は狐の頭に似るからに連れて帰ろうポケットに入れ
白木蓮の新芽のにこげを指先で触ってやめるわれは男だ
薔薇の名は女性が多し一輪の薔薇を厨に活けしとき過ぐ
寺山の柱時計は疲れ果てガラスのなかで鑑賞さるる
幾度も壊されたはずの寺山の柱時計は星座になれよ
Prosit!ビールジョッキをぶつければ十月の空に祝砲が鳴る

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