秋の夜長に 米川千嘉子歌集『牡丹の伯母』を読む

 『牡丹の伯母』は個人から社会、過去から未来と、縦軸横軸を広げて人間を描いていく。広げて広げてその中で思いを寄せたり、考えたりすることは、ときとして辛いことでもあるし、自分も無防備にならなければならないことがある。そんな歌集を嘆息し、憧れ読んだ。

  中年のわれ目覚むれば二十代のわれのこびとはわつと駆け去る
  蓮船に運命のごと夫婦乗りジェット噴射で蓮掘りつづく
  白粥をすする無数の父と母ありてとぷとぷ白粥の河
  出来損なひの人間は声が出ぬといふあなたが大事と今日も言はざる

 『吹雪の水族館』は震災詠が多く社会に対する眼差しが強かったが、『牡丹の伯母』は家族やわれを詠った歌が多い。一首目は中年になり、知識も人生も二十代のころとは比べられないほど蓄積したわれでも、断片的に二十代のわれがいる。睡っているような無防備な状態では二十代のわれのこびとはのびのびと、夢の中や、ガリバー旅行記のようにわれの周りにいるのだか、目覚めると驚いて逃げてしまうという。二十代のわれにとって、時間は畏怖すべきものでもあるという、やわらかに詠んでいるが、示唆の多い歌だ。ニ首目は蓮根農家の歌だが、沼の上を夫婦が船に乗り、ジェット噴射で蓮を掘るというのも、なんともメタフィジカルな場面である。この歌から夫婦生活含め人生の困難や、そのなかでの家族の存在などが読み取れる。三首目は福祉施設の場面だが、無数の父と母という。日本の厳しい人口動態とそれにまつわる社会問題、そしてそのなかで父母と子の生を思い、そうした不特定多数の生が流れて行く様を白粥の河に託した。四首目は西行が人間を作り出す説話が題材だが、あなたは夫を指すと読んだ。そうすると下句の言葉が切実に感じる。

  銀色の高層ビルを仰ぐときおもふ近代断髪のをんな
  中古品となりし歌集を買ひもどす互ひにすこし年をとりたり
  「誠之助の死」はふたたびつひに届かざらむすでに久しかる〈反語の死〉

 生活詠というより、歌人の生活詠というのだろうか、歌人としてのわれを詠んだ歌も多い。一首目は青鞜や明星の女性文人を彷彿とさせる。銀色の高層ビルはいまや多くあるが、やはり現代を象徴している。近代断髪のをんなはモダンガールを彷彿とさせる。取り合わせもなかなか美しい。しかし、ビルを仰ぐときに、現代ではなく近代断髪のをんなを思うところが米川の視点である。近代の女性の社会参加に貢献した女性文人は、現代何を言うのだろうと米川は思ったのかもしれない。ニ首目は短歌をつくる人なら多くが憧れてしまう歌であると思う。平明な言葉なのだが、時間やしみじみとした抒情が伝わってくる。三首目は鉄幹の詩「誠之助の死」が新聞コラムで、誤読されたことが下敷きにある。言論の自由が抑圧されている世相で、反語で批判するしかなかったのだが、コラム執筆者が反語を理解せずに文面通りに読み、稚拙さを指摘したという記憶がある。大石誠之助は大逆事件で処刑された人物だが、反語の死のある現代も大逆事件の時代とそう遠くないという示唆もあるのかもしれない。

  原種薔薇は五枚の花べん百枚の花をつくりしひとのさびしさ
  さびしさは見てゐるほかなしまばたきを繰り返すやうなそのツイートも

 また、人間の弱さに同情している歌も印象に残った。一首目はさびしさにより、交配という形だが遺伝子操作して、百枚の花弁で寂しさを紛らしている。不特定多数の人間の実存的空虚を暴くような歌。ニ首目はツイートというので、若者をイメージした。寂しさや、生きにくさは見ているほかないという。ツイートの内容はおそらく普通なのだろう。しかしポストが多く、そうしたところから寂しさを察せられるのだが、見ているほかないという歯痒さがある。
 他にも土俗的な歌や、他の文学作品をオマージュした歌など、語るべき歌がたくさん収められている。今回は筆者が印象に残った歌を中心に鑑賞した。読むと面白いだけでなく、あたたかな気持ちになる歌集だ。

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