木星散歩 馬場あき子連作「海の金星」(歌集『ゆふがほの家』所収)を読む

 馬場あき子歌集『ゆふがほの家』は二〇〇六年に出版された歌集。イラク戦争や日本の停滞感が歌集に反映されている。ゆふがほの家は馬場の家として詠み込まれており、〈ゆふがほの家も今宵はうたげして若きうたよみ叱られてをり〉という歌も収められている。夕顔が実際に咲いているという読みもいいのだが、〈夕皃《ゆふがほ》の花しらじらと咲めぐる賤《しづ》が伏屋に馬洗ひをり 橘曙覧『志濃夫廼舎歌集』〉のような歌がある。橘曙覧の息子の遺歌集で、夕顔の花が先めぐる小さな家に馬を洗うという歌なのだが、橘曙覧の家には多くの門人が出入りする家だ。そうした文学サロン的であたたかな家がゆふがほの家なのかもしれない。
 さて、本文では本歌集のなかでも連作「海の金星」に注目して、『馬場あき子新百歌』を参照しながら、連作「海の金星」が歌集の中にどのような位置づけを占めているのか、また連作の描く文学世界を探っていきたい。まず第一にいえることは、本連作は歌集のテーマが凝縮されていることが指摘できる。

  明星は夜深き海を上りきてぎーんぎーんと呻吟《によ》ぶならずや
  ゆふがほの家も今宵はうたげして若きうたよみ叱られてをり

 まずは歌人としての<われ>を詠った歌である。陸奥湾が連作の舞台だが、歌林の会の全国大会の会場であったらしい。筆者は『馬場あき子新百歌』で〈野辺地《のへじ》よりみる暗黒の陸奥湾に巨き一眼をひらく金星〉を一首目ともに引用し、金星は〈巨き眼〉で〈幽冥〉・此世を見つめ〈呻吟《によ》ぶ〉とは歌人のようだと述べた。さらに馬場自身ではないかと推測した。二首目は連作「ゆふがほの家」からの引用歌。橘曙覧が下敷きがあるとすれば、より濃厚に歌人としての〈われ〉が立ち上がっていく。

  海を上る明星《あかぼし》ながく見てゐしが幽冥《かのよ》暗しと吾を呼ぶ父
  今もなほ隆起してゐるといふ山塊の父のごとき意志思ふ秋の日

 父の歌は一首目は連作「海の金星」から、ニ首目は「上高地」からの引用である。ニ首目については加藤トシ子が『馬場あき子新百歌』で取り上げており、父というモチーフについて「馬場は奥穂高岳などの山々の底で起きている地殻変動の力に意志のようなものをみている。それも「父のごとき意志」を。無口で何かに耐えながら意志を秘めた父の内面、矜持に重ねて思うのだ。」と鑑賞している。そんな父が一首目で〈幽冥《かのよ》暗し〉と呼ぶのだ。そう思うと歌に重みが出てくる。陸奥湾の暗さがより一層暗く感じられ、金星の存在感が際立ってくる。

  金星が寒さかがやかせゐし秋のトルコの塩湖おもひ極まる
  ニルギリは処女《をとめ》なり蒼き爽昧《ひきあけ》の光に染みえひたをとめなり

 一首目は「海の金星」、ニ首目は「ニルギリ」からの引用。『馬場あき子新百歌』でニ首目に関して井ヶ田弘美は歌意を読み解きつつ、馬場の人間も自然界の一員で同等という意識や、自然に対する人間の行為をさびしむ視線が投影されていると述べている。一首目も「ニルギリ」にみられる自然観があり、さらに金星という高い視座を経由して、陸奥湾からトルコの塩湖に飛躍するところにスケールの大きさがある。

  朝ねむのそよぎ夕べの閉ざし花平和が平凡であつた時過ぐ
  われをみよわれをみよ劣化ウラン弾被弾者の生の怪異なす肉

 合歓は暗くなると葉を閉じる。多くの葉は人類を象徴しているように読める。小さい非力な葉が開いたり閉じたりと生活をしているなかで、平和が特別なものになっていくという厳しい現実がある。人類を合歓に喩えることでより平和が儚げなものに思えてくる。ニ首目は連作「闇穴道」からの引用だが、その他にも〈冬靄の奥にビル街その奥に海その奥のアメリカ空母 「実り」〉など、イラク戦争を題材にした歌がみられる。ニ首目も、アメリカ空母の歌もリフレインがおどろおどろしく使われている。怪異なす肉が糾弾するように読者に呼びかけ、アメリカ空母もすぐそばに迫ってくるように、何度も〈奥〉が繰り返されている。

  木星にガリレオ衛星あることの豊かさを恋へば秋深むなり
  喧騒はありて空洞のひびきある嫩葉ふく新宿のま昼愛しも

 一首目は筆者は『馬場あき子新百歌』で、木星には数十個の衛星と太陽系惑星最大の質量をもつ豊かさがあり、金星と対比されていることを述べた。また、『歌よみの眼』で馬場は「生命力に満ちたみちのくの色」というエッセイでみちのくの秋の風景について以下の引用がある。

みちのくの自然は、こうして紅葉の山が火を噴くほどに興奮し、刈り入れの大地が黄色
光《おうじきこう》を放って静かな休息に入るまで、人々と色彩の興宴をともにする。中途半端な都市化のすすむすぐ隣に、大地に根ざし太陽に育まれる命の色のやさしさを教える、こんな豊かさを残しているのがみちのくである。人はその自然に教えられつつ、くらしを彩る色を選び、また思いきり日常の裏がわに秘めていた情念の色彩化を求めるのだ。

 みちのくという土地の一致もあり、本連作や、引用歌にはエッセイにある抒情も込められていると考えられる。中途半端な都市化といえばみちのくだけではなく、連作「泥を渡る」から引用したニ首目のような、新宿の仮初感・終末感も挙げられる。木星とガリレオ衛星に恒久的な存在感があることや、その木星を恋い、秋の深まりを感じる背景にみちのくの文化への心寄せもある。一首目からここまで読むのは、読み過ぎなのかもしれないが、木星の豊かさを恋うことで婉曲的に文明のかげりや終末感を示唆していることはいえるだろう。
 以上のように連作「海の金星」の歌は、他の連作の歌と並べて鑑賞できるほど、バリエーションに富んでいる。また、連作の歌の一首一首がそれぞれの題材、問題意識に対応しており、冒頭で述べた、歌集のテーマが凝縮された連作ということにいきつく。テーマ性が強い歌が多くなると作品時代が重くなったり、主張が強くなり詩情が削がれることも起きかねないが、本連作では星々が煌めく陸奥湾という場面設定が美しく、壮大なためテーマ性のある歌が凝縮していても、ゆったりと読めるのだと感じた。
 馬場の作品は古典の作品の本歌取りや、ライトモチーフの幅広さがあり、読み深めていっても到達できない部分がある。一つの連作でここまで語れてしまうということもからもそのことは言えてしまう。しかし、何度も歌を味わいながら、発見できることが多く、馬場の文学世界を散歩しているような気分になるのも馬場の作品の特徴かもしれない。

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