秋のハーゲンダッツ 「わせたん失恋部」「ほとり」vol.3を読む

 秋の夜長に長編小説もいいけれど、仕事終わりの夜などは特に読みあぐねるのは否めない。そんな夜はさくっとネプリを読むのもいい。きっとネプリは寝る前に食べるハーゲンダッツ(血糖注意)のように楽しむものなんじゃないかと思った。2018年秋は「わせたん失恋部」と「ほとり」vol.3を読んだ。
 「わせたん失恋部」は冒頭で「なにを詠んでも失恋になっちゃう時あるよね」という話で発足したとのこと。たしかに今の恋愛観は『みだれ髪』や『サラダ記念日』とはほど遠いよなぁと思いつつ、一九八八年生の私の時代でさえそういう風潮だったので、安易にバブル崩壊以降の風潮なのかななどと思った。

  音もなく花瓶の水を飲み干してただ愛でられる存在となる /尾崎秋南
  縁語より強く繋がる岸と舟 もうどこにでも行けるはずでしょ? 同

 花とはいってはいないが自分を花にたとえた歌。だが、花でいいのではなく、下句で受動的な存在であることに違和感を感じている。連作を通じてどちらかというと相手を自分の外に押し出すような内容である。二首目は一青窈の『ハナミズキ』よりも少しドライだ。〈縁語より~〉が和歌自体をモチーフにしており、下句の直情的な物言いに厚みを与えるのであろう。

  歯並びの壊れたとこに舌を入れ告げぬことみな熱かった夏 /染川噤実
  春あなた、夏にあなたを好きなわたし、秋には完璧になる離散は

 連作タイトルが「秋には完璧になる」とあるように季節をモチーフにした歌が配置されている。夏は瑞々しい場面が切り出されている。細かい場面設定が効いていて、下句が観念的だが説得力がでるようになっている。秋は紅葉が散る季節だ。二首目のようにきれいに散っていくのが完璧とすると滅びの美学のようなものがあるのだろうか。

  不完全の意味を英語にもつと言ふ檸檬まはりつつ落ちゆくレモン /加賀塔子
  一日の感情を押しあててゆくアイロン台を最後になでる

 連作一首目に帰省の歌があり、所々に回想の歌が入るので、過去の恋を回想しているという連作だろう。文語口語ミックスで、旧かなと全体的に手堅い詠みぶりで、引用一首目なども梶井基次郎『檸檬』や高村光太郎『レモン哀歌』などをよぎらせるレモンという斡旋が文学的だ。この歌に関しては光太郎のほうがイメージは近いか、しかし『レモン哀歌』よりアンニュイなのは不完全という意味の付加と、回りながら落ちてゆくという浮遊感と落下という動作ゆえだろう。二首目は、アイロン台は朝使えば一日のはじまり、明日に備えて夜使えば一日の総括のときに使う道具といってもいいかもしれない。帰省時に思い出した思慕や、郷愁を最後になでることで、アイロン台に託したのかもしれない。

  旧友であれば日傘に誘へども仁王のごとき肢体を曝す /高良真実
  山折りと谷折り、きみの折る鶴のからだに深く息づく山河

 連作「自然誌拾遺」とある。失恋とネイチャーライティングの取り合わせが面白い。ネイチャーの部分が爽やかで、相聞の湿気と上手く調和がとれている。一首目は一読してわかるのだが、仁王という比喩が面白い。以前のイメージとギャップがあって、人間ではなく少し距離がある仁王に映ったのだ。そうしたギャップが仁王のごときという比喩で表現されていて技を感じる。また、環境文学は仏教思想にも関わりがある。そうしたテーマの関連性を持たせつつ、左記の歌をもってくるのはやはり上手い。二首目も山折りと谷折りから山河を想起するのだが、折り鶴から景が山河にズームアウトし、さらに山河はきみの身体に内面化するという複雑な構造をさらりと歌にしている。

  人の指におもちゃの指輪をはめたとき怖くて途中でやめてしまった /関 寧花
  七里ヶ浜の波の強さを言うときにそこにある夜の濡れている砂

 一首目は無邪気な遊びの中にある怖さを題材にしている。なるほどと思う。たしかに、指輪を結婚式ばりにはめるときに、何か重さを感じる。二首目はしめやかな歌。夜や砂、そして回想かわからないが七里ヶ浜という思い出のありそうな地名から、夜恋人とある夏の話をしていたのだろう。抒情を海浜に託しつつ、それが回想でもあるという重層的な歌だ。
 続いて「ほとり」を読む。寄稿者は「塔」の方が多い。もしかすると全員「塔」かもしれない。歌歴もある方々で、今回は秋を受け取るというテーマで短歌を一人三・四首、俳句も掲載している方もいる。

  繭よりもやはらかい秋 座席には知らないひとが隣に眠る /大西久美子
  はらわたをちゃんと除いたはずなのにひとりで食べる秋刀魚は苦い /深山静
  赤々とわきたつ雲のまぶしくて睫毛の先に九月が終わる /佐藤涼子
  癒えた傷と癒えない傷を同居させ長袖に腕をとおす朝なり /北山順子

 大西作品は上句で秋を寿いでいる。そんな気持ちいい秋の日に座席(車の助手席などを想起すればいいか)に知らないひとが眠っている。きっと秋だ。夏のように騒ぎ立てることもなく、冬のように厳しさを突きつけるでもなく、秋は眠って訪れるのだろう。深山作品は秋刀魚の苦さを人生の苦さに重ねている。はらわたは有用無用といったら有用のものだ、そうした有用のものを取り除いたのに有用の苦さが残っているのだ。佐藤作品は入道雲と秋の気候が同時にみられる瞬間を、睫毛という身体の先端で捉えているところが感覚的だ。北山作品は、仕事に向かうときに着る長袖に傷を隠すという。傷つきながら生きていくという痛みを感じる。
 以上楽しくネプリを拝読した。「わせたん失恋部」は読んでいて、女子会に迷い込んだときの戸惑いも感じつつ…。ちなみにかくいう私も相聞で連作をつくろうとすると三首目あたりで破綻する。「ほとり」は俳句も載っていたが、当ブログは短歌ブログなので今回は割愛する。皆さん実際読んでみてください。では、ちょうどいま心地よい眠気はさしたのでここで筆を置きます。おやすみなさい。

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