511本足の蛸 短歌アンソロジー「OCTO」2018を読む前編

 「OCTO」2018は井上久美子、遠藤由季、佐藤りえ、富田睦子、花笠海月、松野志保、吉村実紀恵、玲はる名(敬称略)がそれぞれ七十三首を寄せている短歌アンソロジーの同人誌である。メンバーをみるとそれぞれの発表の場や、結社誌で自他ともに実力が認められている中堅歌人たちで、文フリで即買い必至の同人誌なのは間違いない。本誌の七十三首という量については、たとえば歌集を読むときに入りこめるタイミングは読者それぞれだろうが、私は四分の一あたりからのような気がする。そのあたりから展開が気になりだしたり、私性みたいなことを考え始めたり、作者の属性を踏まえて読んだりする。本誌の連作をちょうど読み終わるあたりで、もっも先が読みたいのにと思ってしまうのである。前置きが長くなった。さっそく作品に触れていきたい。

  下の子は二日目となる 肩までの髪は自分で梳いただろうか 井上久美子「イデンケン」
  北口のドトール少し混んできて氷は水に戻ってゆきぬ
  窓に見る改札はどこか遠い門 くぐり方さえ思い出せない
  「ママでも」と雑誌の表紙に梨花おり大きな口をぱかっと空けて
  行ってきますと高らかに言えるひとたちを微笑みで送るひとになりたい

 連作名でもあるイデンケンとは夏休みこども遺伝学講座の遺伝研のことだと他の歌でわかる。井上の連作はイデンケンへ子が参加して、母である我と距離ができたことをきっかけに、子を相対化してみつめ、ひいては我自身もみつめるという連作だ。一首目はまさにその連作のモチーフが凝縮された歌で、キャンプなのだと思うが、「二日目」と子だけで過ごした時間の経過が詠われている。さらに自ら髪を梳いたかと思いを巡らせいるのだが、髪は〈髪《かみ》五尺ときなば水にやはらかき少女《をとめ》ごころは秘めて放たじ 与謝野晶子『みだれ髪』〉のように女性の象徴であり、それを自ら梳いたか問うことで、子の自立をおそるおそる見守るさまが詠われているのである。また、二首目のような地の歌でも時間の経過が表現されている。連作を通して読むと、時系列になっており、イデンケンという短い時間の中に、子の成長という時間が内包されているようでもある。また、三首目のように子を通して自らにも時間の経過の眼差しを照射している。改札は社会人生活の象徴だが、遠い門になっておりくぐり方が思い出せないという、どこか映画的、映像的な表現だ。それほど遠くに感じてしまっているのであろう。四首目も自らのママという属性についての歌で、梨花が出てきているが大きな口にがらんどうなイメージが伝わってくる。少し自分に厳しい視線なのかもしれない。街や郊外の歌から女性について、母について思いをめぐらす歌が続いていくが、終盤に五首目の歌が収められている。子の成長だけでなく、我が母をふたたび肯う過程も描かれており、連作を読み進めることで様々な時間が展開していくのだ。

  あきつ国なりし大地に秋の実の首飾り提げわれは躍りき 遠藤由季「おはぐろとんぼ」
  夏に生るりんごも生れて人間はもうこの星のほかには住めず
  茄子の花思いがけずに咲いている川縁をゆくわが歯は白し
  日本ではこんな感じの女の子ほとんど絶滅したんじゃないかな 同「年下なれど」
  若葉から小枝《さえだ》の影となりにけり人を恋しく思うこころは 同「楡に似る人」
  ないものかほどよく焼けるトースター秋の陽射しのようなる一台 同「母のちりめんじゃこ」

 「おはぐろとんぼ」は一首目のような日本神話に登場するアメノウズメや、二首目の人間の都合で特異な性質を帯びてしまったりんごなど、モチーフが自在だ。異常気象やジェンダーもテーマになっており冒頭から読み応えがある。そのなかでも三首目のように色彩あざやかな詩的空間と、連作名のおはぐろとんぼ、そして未婚の我いう題材を無理なく詠み込んだ歌に上手いなぁと唸ってしまう。四首目のような作者の話口調と合っているような口語短歌も魅力的だ。これは作者を知っている人がより楽しめる歌だろう。五首目のように自らの年齢を詠む歌もある。若葉から小枝という、色彩だけでなく硬質であったり、細やかさだったりが移り変わるという含意も読み取れる。また所々、秋という言葉が全体の中に散らばっており、遠藤にとって自らの年齢を四季に例えたときに、それは秋なのだろう。そして、その秋という豊穣の季節から生まれた歌がこの一連なのだろうと思った。六首目は好きな一首なので引いた。パン好き歌人としての一首で、パンも秋の陽射しのような暖かさで焼いてくれるようなトースターを探しているのだ。

  動けなくなるその日まで みずからの身体という異国を生きる 佐藤りえ「ジョン・ケージの閻魔帳」
  工場は吐き出し続く神様のシャーペンの芯のような鋼管
  正眼に剣を構えたドン・キホーテにじりよる法隆寺五重塔
  星に名を 犬に眠りを コーカサス地方に雨を ワインに栓を
  倫敦の空より届く漱石が零したいちまいのビスケット

  五十音すべての音に歌が割り振られており、それぞれ一首一首屹立している。デジタル大辞泉によると閻魔帳は「閻魔王が死者の生前の行為や罪悪を書きつけておくという帳簿。」という意味。ジョン・ケージは20世紀西洋人名事典によると「1912.9.5 - 1992.8.12 米国の作曲家,哲学者。ロサンゼルス生まれ。1930年ヨーロッパに留学、’31年帰国後カウエル、シェーンベルクに師事する。’30年代には半音的な作品を残し、’40年代にはマース・カニングハム舞踊団の音楽監督を務め、’38年プリペアド・ピアノを発明する。’50年代には「易の音楽」(’51年)などに代表される東洋哲学による偶然性の音楽を展開、’60年代には楽器指定なしの曲を上演した。シカゴ・デザイン学校、ニューヨークのニュー・スクールなど米国各所で教壇に立った。」とある。本誌のまえがきにタイトルに深い意味はないとあるので左記のグーグル検索はナンセンスなのかもしれないが、気になったので調べた。永井陽子歌集『モーツァルトの電話帳』のオマージュで、モーツァルトより現代に寄っていて、電話帳よりカオスな感じがする。
 全体的に幻視や異化などのレトリックが用いられており、パロディや幻想味がかったユーモアなども織り交ぜられて不思議な読後感だった。ボルヘスの詩や小説を、引用元を追いながら読んだときにも同じような感覚を味わったことを覚えている。一首目は佐藤の作歌方法を知るヒントになるような歌だ。身体と乖離したところに魂があり、動けなくなる日まで遠くから自らと取り巻く世界を見ているということであろう。二首目は眼目が面白い。鋼管が次々と出てくる映像は、経済ニュース等でたまに流される。鋼管とシャーペンの芯というのは確かに似ていて、ガリバー旅行記的な目線だ。三首目ではドン・キホーテが法隆寺ににじり寄る。風車に突撃して敗れたドン・キホーテだが、騎士道のパロディであるドン・キホーテは法隆寺にぶつかったらどうなってしまうのか。また、正眼に剣を構えるとあり、突撃槍ではなく日本刀を持っているのかもしれないなどいろいろ想像の余地があり面白い。四首目は○○に対して必要な○○という構図が反復されているのだろう。結句の〈ワインに栓を〉が上品なユーモアで、飲み過ぎを嗜めるようであったり、もしくは酔に想像をはたらかせるのはもうおよしなさいということでもあるかもしれない。五首目も難しい歌だが、輸入されたビスケットに対して漱石も食べたのかもと想像する歌だ。佐藤の想像力で、多くの過去の人物が現実世界に召喚される。閻魔帳の持ち主であるジョン・ケージでさえも。

  うっそりとこころ離《さか》れば伝えざる言葉を夜の川に棄てにゆく 富田睦子「雨後の月」
  切手二枚貼り付け届くエコバックわたしのエコには濁点がある
  そとづらかそれとも素顔かわからないわたしの子宮にいたはずなのに
  やがてあなたの海にゆくのだ月光のあかるく響く凪の海へと
  コンビニで買う黒ラベル呪うべき人の三人《みたり》が増えし帰路にて

 富田作品は内省的はストイックだ。一首目は心が離れてしまった相手、もしくは言葉から心が離れてしまったとも読めるのだが、どちらにせよ夜の川に捨ててしまうのだ。夜の川はさらさらと音だけしており、街の光や月光で多少光を反射している。言葉は自らから出たもので、光を放っているが、捨るべきものなので、夜の川ほどの光量なのだろう。他にも捨てて行った人が何人かいて、夜の川なには言葉や思いが発光して流れているのかもしれないという想像もできる。二首目も自らへの視点が厳しい。空穂の〈げにわれは我執の国の小さき王胸おびゆるに肩そびやかす 窪田空穂『濁れる川』〉を想起させるような厳しさがある。三首目と四首目は子を題材にした歌で、三首目付近の歌で次第に精神的に自立していく子をみている親の視線の歌と思わせておいて、四首目で月光のあかるい海原を予見するという展開がいい。四首目のまえに〈湧泉をはなれるほどに勢を増す水のいのちよひとのちからよ〉とあり、この歌も力強い歌で、最後にぐっと読み手を引き寄せる。五首目のようになんだか人間臭いところも面白く、人間の振り幅が連作の振り幅に直結させる上手さを感じた。

 私の体力とブログの掲載ということを考えて、前半後半に分けます。後半も頑張ります。なお、書影は筆者のブログ運用能力の低さから掲載できないが、美しい植物(薊?)の写真です。
後編へ続く!

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