環境と石鹸

 二〇一八年は環境哲学や環境文学の本を多く読んだ。まだ二〇一八年初旬は一部の経済ニュースで気候変動の経済リスクが指摘され、マイクロプラスチックに関しても報道にはあまり出てこなかった。ちょうど環境リスクへの懸念が広る前に勉強してしまおうと思ったのである。クリティカルに文学をするのなら残念なことに、人類の問題は題材である。それが二〇一八年下旬にかけて一気にニュースに流れ、今や気候変動の深刻さは周知の事実になってしまった。私の感知・行動が遅かったのは否めないが、さすが情報社会だ。ただ、これも残念なことに大きな問題なのでしばらく題材として向き合えるだろう。
 いまだにコンビニで袋を断り切れないときがあるから駄目だ。以下、二〇一九年の作歌始め。石鹸は排水時に分解されるため環境にいいそうだ。釜で炊くときは石油をつかうだろうが、石鹸自体は植物性だ。何にしても石油は使う。地中から汲み出して燃やす。その炭素の幾ばくかをわが家のアロエは光合成で固定化させる。

  石鹸
幾層も痩せてゆきたる石鹸をいじめいじめる夜もあるなり
殺菌より除菌というべき優しさにつつみゆきたり石鹸はわれを
純石鹸なれば石川啄木もつかいけるかな泡立てており
くれないの枯れた色には名はないぞ野菊が風に揺れるからから
香油とうものがありしか白秋の詩にもありしか風呂で思いぬ
煩悩の数だけ鐘を突き続けまだまだ足らず今年も突くのか
温泉の描写の多し温泉の少女の描写はさらなり太宰は
正月の歌並びたり啄木の笑いに声なくニヒルありけむ
樹脂製の軽石もありなめらかな石鹸もあり石とは何ぞ
湯けむりのなかでは消えてゆくものを詠ってしまう〈われ〉ももれなく

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