梅林の舟 佐伯裕子歌集『感傷生活』を読む

 子、母、義母、祖父など家族の歌が多い。家族詠といっても生活に根ざした歌というわけではない。それぞれの時代や、社会的背景、われからの立場はバラバラで、家族を起点に広がる世界がある。

  いんげんの筋とりながら母もその母もこうして塞ぎこみしか
  誰とても親の裸は見たくなく襖のようにそろりとひらく
  思い出はまるくて薄くてすぐ萎むタコの貌した赤い風船
  
 一首目は、病床の母を思い塞ぎ込んでいるの場面だろう。母系のつながりを意識しており、いんげんの筋とりから辿っている。〈縁側に隠元豆のすじを取る女手という手は消え去りぬ〉という母が亡くなったあとの歌もある。思わず自らの母の手を思い浮かべる読者も多いのではないか。二首目は家族介護の歌だ。家族介護は認知症やその他様々な疾患により親に対するイメージは変わっていくものだ。その違和感と葛藤しながらの介護というのは身体的・心理的というより、たましいの次元で苦難がつきまとう。歌集には壮絶な歌は多くはないが、引用歌のような違和感は出ている。それらを緩和するように下句は少しユーモラスな表現にしているのかもしれない。三首目は母と死別した連作の中の一首で、思い出を下句で比喩的に表現している。タコの風船という題材にノスタルジーもあり、しょぼしょぼ萎んでしまい、風船の用途を失ってしまうという、どうしょうもない喪失感を歌にしている。タコの風船というのも悲しげのなかに、ユーモアがあり悲喜の二元論では表せない抒情がある。

  廃棄業者さがしておれば一生もぽいと放れる気のして来たり
  大胆に老いよとひらく桜ありもうぼろぼろの黒き幹より
  この星の面会時間に祖母に会い父に会い母に会いて別れし

 母との死のあとは一首目のような、人生の重みについて考えるような歌もみられる。そして、自らの老いも自覚してより一層人生について考える歌が詠まれる。二首目も上句だけなら老いの肯定の歌だが、下句で無条件に肯定するのではなく、実際はぼろぼろだと詠っている。言葉は平易なのだが、重い歌だ。しかし、三首目のように時間の経過とともに生命のつながりを、〈この星の面会時間〉と詩的に表現し意識するようになる。この星というからには、あの星も想定されているのであり、仏教的な死生観がみられる。

  郵便配達研修のために出てゆきし子の部屋にうすき綿ぼこり降る
  届きたる茶封筒すら輝かし子も配達をすると思えば
  郵便の赤いバイクの子がゆけり鳩を騒がせ曲がりてゆけり

 一首目は子が郵便配達研修に行ったという歌なのだが、〈一寸の虫にもある、という五分のその魂が生きがたくする〉や、二首目の歌を読むと、なかなか勤めるのに苦労したことが察せられる。〈綿ぼこり降る〉という不在感が強調されていて、心配になるが二首目のように、順調に働く子を安心して見守っている歌があり、読者も安心する。三首目は思わず、郵便屋さんと言ってしまいたくなる描写だ。スーパーカブがずんずん進んでいく描写に力強さを感じる。

  梅の林を抜け来し髪も香るらん灯り点さぬ家に入るとき
  かつては沼なりしと云う梅林に緋鯉のおよぐ夜もあるらん

 家族詠が多いのだが、美しい歌も多く目につく。一首目は梅は暗闇で見る(香りを楽しむ)ということを、「日曜美術館」で浮世絵を扱った回で言っていたが、そういった粋なところがこの歌にもある。梅林から家に梅をひきつれていくというところに風情がある。二首目は奇想の歌で、梅林という嗅覚と、緋鯉という視覚聴覚が一首に凝縮している。〈あるらん〉くらいで流す感じも力が抜けていていい。

 

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