月夜の鴉 遠藤由季歌集『鳥語の文法』を読む

 『鳥語の文法』は遠藤由季の第二歌集だ。婚を解く連作から始まり序盤の主題としては重いのだが、感情に溺れることなく繊細に、力強く展開していく。また、海外や震災の歌も散りばめられ、読み応えのある歌集だ。

  ガムテープの芯の真ん中にいるようだ荷物がまとまらない真夜中は
  さみしげなメールが何度か届く夜熟れたバナナの香は漂えり

 遠藤の比喩は独特だ。米川千嘉子は「かりん」(二〇一八・二)で〈びっしりとてんとう虫ほどの汗をかくマーケットにて母を待つ子は〉を引用しつつ、てんとう虫ほどの汗についておかしみと苦しみのある比喩で、それ以上に子の不安や母子の絆の儚さや、私自身にある〈母〉というものの(母親であることだけを根拠にした)不遜な自信を思い出させたと評している。米川のアプローチは抒情面からの分析である。一首目のガムテープの歌はそれに近い。ガムテープは引っ越しの場面で登場するもので、実景と比喩が重層的にかかってくる。ガムテープの芯の直径の大きさと、周りにテープが巻かれている閉塞感が景と心情を表現している。二首目は誰からのメールなのかは読み取れないが、下句の比喩が独特である。ガムテープの歌でもそうだが、遠藤の比喩は細かい描写を伴う。単なるバナナではなく、熟れたバナナの香なのである。それも夜なので、熱帯の湿気もイメージとして呼び起こされる。細やかな的確な比喩がイメージの喚起に効果的に作用しているのである。

  鴉とわれひとかたまりの闇分かつまだ何もなきゴミ集積所
  おばあさん帽子を被る人多し鳴かぬ小鳥を隠しいるらむ
  じっくりと己を辞めてゆくように鳩は鳴き終え路地に擬態する

 タイトルに鳥がつくだけあり、鳥類も多く出てくる。鴉と鳩の歌が一番多く象徴的な意味があるため引用したが、雀や白鳥も出てくる。鴉は闇の象徴として出てくる。村上春樹『海辺のカフカ』でもカラスは出てくるが、本歌集でもただならぬ存在である。それはシャドーでもあり、鴉の色艶や鳴き声、通勤者を超然と電柱から見下ろす様に、遠藤は自らの闇を重ねている。精神分析学のような考えになるが、鴉とわれの緊張感は闇を認めつつ、飲み込まれまいとするところからくるのかもしれない。二首目は結句でらむと、ちょっとした素朴な奇想なのだが、小鳥は自我のようなもので、おばあさんは年齢を重ねていくにつれて、その自我のようなものをそっと大事に帽子の中にひそませているようだ。題材に対して温かみのある視線がある。三首目の鳩は、社会に疲れたサラリーマンのような描かれ方をしている。他にも鳩の歌があるが、どこか群衆を象徴しているようである。鳩は集団で飛んできて餌を一斉につつくところが、どこか人間の群衆を彷彿とさせるのだろう。鴉と鳩は逆のベクトルをもつように感じた。

  事務所にはスープの匂いが入り乱れ昼の男らもくもくと吸う
  湖であれば恋などひとつくらい語りしものを手賀沼は沼
  結露した窓をくり抜くように拭き作らむ月に繋がる逃げ道

 米川(ニ〇一八)は「過去と未来が太く一本に繋がる時間や価値観の軸の上にそれぞれの生を確かに感じることが困難な、現代の人間の存在感が濃い」とも評しているが、そんな現代を遠藤は冷静に観察しているため、一首目のような歌が詠まれるのかもしれない。もくもくと吸うのは煙草ではなく、スープである。現代の男性の慎ましく物足りない感じがスープを黙々と吸うという描写からみてとれる。二首目は湖を出してきつつ否定して、手賀沼を出現させる。湖の醸し出すロマンティックはもう流行らない、または沼を自らに引き付けているということであろう。湖よりも沼に、太陽よりも月に心寄せをするのである。月の歌も多く、三首目においては、月に繋がる逃げ道を希求しているというのだから、月への想いは強い。萩原朔太郎が月について「月の詩情 日本の名随筆30」(一九八五年、宙出版社)で「青白い光が、メランコリツクな詩的な情緒を、人の心に強く呼び起させることにもよる。だがもつと本質的な原因は、それが広茫極みなき天の穹窿で、無限の遠方にあるといふことである。(中略)生物の不可思議な本能であるところの、向火性といふことに就いて考へてゐる。」と述べている。現代の社会で生きながら短歌をやるときには、現実を相対化しなければ、あまりに散文脈に陥ってしまう。現実を相対化するときにふと孤独になる、なぜなら現実と距離を置かなくてはならないからだ。月が出てくる歌はそうした孤独な気分を感じさせる。
 かりんの40周年記念大会でかりんは駿馬のような歌人が多いという話があったが、遠藤も多分に漏れず駿馬のような歌人だろう。

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