ミニベロでどこまでも 松本典子歌集『裸眼で触れる』を読む

 二〇一九年六月十六日はかりんの東京歌会の前に勉強会で松本典子歌集『裸眼で触れる』を読む会を催した。本文は発表に際してのノートとして作成した。本歌集の歌集評は総合誌や、「かりん」二〇一八年二月号で掲載されているためそちらも参照をおすすめする。本歌集と第二歌集『ひといろに染まれ』、第一歌集『いびつな果実』を比較すると、個人史的な変化は当然として、社会詠が増えていく過程がみてとれる。『いびつな果実』を東郷雄二のウェブサイト橄欖追放(http://petalismos.net/tanka/kanran/kanran15.html、最終閲覧日二〇一九年六月四日)で、「一読して気付くのは相聞の多さである。「一巻のほとんどが人思う歌で埋まっている歌集は近年珍しい」と馬場も書くほどである。」と述べている。何首か引いてみよう。

  ゆづられぬ恋と思はむ時にこそわが取り出だす〈陵王〉の面 『いびつな果実』
  咲き懸かる白藤 「そばに居すぎる」とくり返しわが肩にこぼせり

 一首目は多く引用されている歌である。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、陵王とは北斉の国の蘭陵王長恭という人が、その美貌を隠すため仮面をつけて戦いにのぞんだという故事に由来して作られた舞曲である。陵王のテーマ性と歴史がわれに宿るため、相聞といっても並の相聞ではないことがわかる。一首目のような凄まじさだけではなく、二首目のような瑞々しい歌もある。白藤の垂れる感じが、身体的な豊かさや、寄りかかる構図を彷彿とさせる。そばに居すぎるという甘やかな抒情も典雅さで歌として屹立させている。

  君と観る「隠者と眠るアンジェリカ」来べき今宵の構図とおもふ 『ひといろに染まれ』
  線路には見ゆ 定刻を遵守してアウシュビッツへ往く運転士

 『ひといろに染まれ』では第一歌集の歌柄に加え、西洋的なモチーフが増える。一首目は「隠者と眠るアンジェリカ」がわかれば下句がよりわかる。エロスとナルシスのある歌である。二首目は『裸眼で触れる』につながる歌のように思う。場所・時間を超えたまなざしがある。なお、東郷雄二はウェブサイトで「松本の歌は「身熱を感じさせる歌」だということだ。これは低体温の歌が多い現代短歌シーンにおいては奇貨とすべきことである。」と評している。相聞が多いと先の引用でもあったが、抒情に重き、古典を接収する作歌態度は正道なのではと思ってしまうのだが、現代短歌シーンでは稀有なことになったということであろう。前置きが長くなった。『裸眼で触れる』では冒頭で述べたように社会詠が増えていく。

  さくらふぶきに紛れてビラを差し出さるわが街に霊苑はいらぬと 『裸眼で触れる』
  そらに舞ふ桜 こころはわたくしの体こそせまき囲ひとわらひ
  さくら普《あまね》く降るなかひとは画すなり生きて棲むところ死して棲むところ
  しめり帯びてふくらむ心の稜《かど》きみが湯ぶねに読める『山家集』かな

 冒頭の連作より引用した。一首目はNIMBYを詠ったものだが、霊苑のビラとさくらふぶきが不思議と違和感なく同居している。さくらふぶきが舞う春の気持ちいいなかでも、いいとも悪いともいえないビラを渡される風景が、季節の情感だけではやっていけない現代を象徴している。二首目は同じ連作内の歌だが、身体をメタ的な視点で詠っている思索的な歌である。体がせまき囲いという認識は舞いからくる感覚のような気がする。上の句の桜は、三首目のような、生死の境に咲くさくらや、四首目の花の歌人西行につながるような桜と、超越的な存在かのであろう。冒頭の連作はさくら尽くしなのだが、扱い方や在り方も多様であり、さくらという題材でこれほどの抒情ができる歌人なのだということを物語っている。

  いのちとおもふ舞台をわれはおほなゐの揺れに奪ひき役者きみから
  さくら咲きわれは舞ふのみだれもみな代役のきかぬいのち生きゐて

 東日本大震災を題材にした連作もあり、国立能楽堂や国立劇場に勤務する松本ならではの視点の歌だ。震災の直接的な被害を詠う歌は多くみられるが、劇場という視点から、震災における文化的な営みの立ち位置を考えさせらる歌はほかにみない。現地の被害や衣食住に気が向いてしまうが、能楽師は能が衣食住でもあるし、むしろ舞台はそれ以上の存在なのであろう。しかし運営側としては閉めざるを得ない葛藤が詠まれている。二首目などもさらに普遍的な抒情になっているが、辿っていくと一首目から出発するのであろう。一首目から二首目への抒情の飛翔は読み応えがある。

   (ジャーナリスト・後藤健二氏がISILにより拘束される)
  生還を祈る気持ちの尖りゆく「I AM KENJI」の言葉生まれて
  銃をもつ子どもや空爆見て来たる太陽に逢ふさくら咲くけふも
  「空爆をやめて」「生きたい」と希《ねが》ふ声タイムラインに並ぶ#Aleppo

 社会詠というと生活にどこかでひきつけるとわかりやすくなる傾向はある。しかし松本は異なるアプローチをとる。たとえば一首目や三首目はSNSを通じて中東をみた歌である。いまは紛争地帯からもSNSに投稿でき、まさに起きていることが音声や映像でリアルタイムにみることができる時代である。ただ、SNSをみただけでは歌はどこか他人事めいてしまうが、松本はそこで起きている被害に純粋に心を寄せ、共感する強さで読ませている。一首目は気持ちが湧き起こるではなく、尖りゆくというところに、剥き出しの心で共感している様が感じとれる。三首目もSNSでアレッポの様子が流れて、それを歌にするというところに松本の大切にしている価値観があるのではないかと考えた。

  ゆり咲きのチューリップと思《も》ふおほははの関節炎に反りかへるゆび
  おとろふる母の手ぢから、眼をおもふ雪の夜 鍋を洗ひなほして

 社会詠についての言及が多くなってしまったが、心寄せは家族詠にも反映されている。一首目、関節炎で指が反っている様子は、疾患によるもののためネガティブに捉えがちだ。しかし、それは曲がっているとはいえ母の指なのである。反ってしまった指をゆり咲きのチューリップに例えることにより、ポジティブな光を当てており、松本ならではのヒューマニズムがみられる。二首目も母の手の力あるいは、台所仕事の力や、視力の衰えを、われが鍋を洗い直すところで感じているところの歌だ。雪の夜というのが静かでまた寂しい景で、真っ暗で先が見えなかったり、歩きにくかったりする感覚が暗示されている。また、母と鍋を囲んだあとの余韻もあり、雪の夜は家で家事をするという慎ましやかな雰囲気もある。また母の歌についてはさいかち真のさいかち亭雑記(https://blog.goo.ne.jp/saikachishinnn、最終閲覧日二〇一九年六月十日)で、〈ひとりゐの母に肥大しのしかかる夜のつよき風、空き巣のうはさ〉を引用しつつ「老いた人が自分をおびやかす不安や、妄念に近い思い込みに抗いようがないという事そのこと自体の持っている悲しさを、みごとに歌にしている。」と絶賛している。こうした歌も母の気持ちをどれだけ想像し得るかで、歌の深度が変わってくる側面があり、かねてから述べている共感が関わってくる。

  楽器、舞、詩歌を搬ぶトラックで楽屋口けさも港のにぎはひ
  漆黒のミニベロを駆るさくらばな咲きにほふ春の体幹となるまで

 引用してきた歌はどれも震災や老いなどを詠った重いものが多くなってしまったが、一首目のような楽しい歌も収められているので紹介したい。上句から平安時代の公家の家のような描写だが、トラックが寄ってきて、港のにぎわいがあると表現する。こうした時代を一気に超える感じが面白い。しかも、けさもとあるので、毎朝のように港のにぎわいがあるという示唆も楽しいのである。二首目、ミニベロというのはタウンバイクだが、春の体幹となるまでというのが、開けた身体感覚だと思う。ミニベロに乗っているわれが春めいた空間を突っ切っていくうちに、自分自身も春めくという気持ちのいい歌である。ミニベロは漆黒とすることで、さくらとアクセントになっており、われの輪郭を形作っている。
 時代や世界、文学は縦と横の軸を超えることができる。しかし、どう超えるかが問題になってくる。松本は歌集名のごとく裸眼で触れることで、心寄せしているのであり、それは王道のようで、意識的に選択している人はあまりいないように思える。時空間を超えるということは題材は無数に存在することになるが、そのなかで松本は何に対して、どのような角度で眼差しを向けていくかが気になるのである。

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