ピカソと暮らす 坂井修一歌集『亀のピカソ』を読む

 最近日記をつけるようになった。短歌よりも日記はもっとぼんやりとした随想めいたことも書けるのが魅力だろう。日記と短歌の間にあって、生き生きとしたわれが時系列で読めるのが短歌日記だ。本文では本書をあえて生活、とりわけ生業をもつ歌人としてのわれに引きつけて読んでいきたい。

  ハードディスクざざと唸りて月曜日はじまらむとす液晶の上
  〈ことば〉こそ貧者の宝 外套の裾ゆらゆらとあそばせて今

 生活の大半を占めるのは仕事である。多くの歌人が短歌と仕事の両立に思いを巡らせてきたでろう。今はどんな職種も仕事始めの最初の作業がパソコンの起動である人が多いと思う。次第に例えばWindowsの起動こそが、勤め人われの起動なのかもしれないという着想が浮かぶこともあるかもしれない。引用歌では〈液晶の上〉から月曜がはじまっているという、眼目に面白さがある。貧者というと経済面もそうだが、社会的階級のほうがしっくりくる。それはいわゆる抑圧された存在かもしれないし、啄木のような文人かもしれない。ことばは文学、哲学、思想などの場面で貧者に寄り添ってきたのだ。外套は書かれていないが、黒色がふさわしい気がする。そうすると木下杢太郎を想起する。杢太郎は大学の講義の合間、ステッキ片手にふらっと散歩をして物思いをする人物だったようだが、そんなひと場面かもしれない。

  秀才君どうか賢者になつてくれ わが祈るときガウン波打つ

 教授として多くの学生と接する作者だが、東京大学大学院というと日本の知のトップである。しかし、学生は秀才ではあれど賢者ではないという。坂井が「サイバースペースとセキュリティー」(第5回 情報社会と人間  情報管理 Vol. 59 (2016) No. 11 p. 768-771)
でドストエフスキーの『悪霊』のニヒリストのスタヴローギンについて触れて、「単なる知識ではいけないのだろう。怖さが身にしみていなければ。実際にこういう人物に会って感じることが一番なのだろうが,力ある小説や絵画は,間接的にではあるが,このことを五感に訴える形で私たちに知らせてくれるものと思う。こうした私たちの感情生活に食い込むような教養こそ,情報社会のセキュリティーを考えるうえで必須のものと思う。少なくとも,セキュリティーを検討する中心になる人々は,そうした教養の持ち主でなければならないのではないか。」と述べていることから、秀才から賢者への飛躍を祈るのである。〈わが祈るときガウン波打つ〉とあるが、ガウンが波打つことで、卒業し去りゆく学生が次の舞台へ進んでいることが暗示されている。ガウンが波打っている描写だけなのだが、祈りが通じているような気がする。

  昼の森雨ふれば黄の粘菌のとどめがたしも わたしは腐界
  観潮楼書斎にひとり中将の帽子をたたいてぶつぶつと夜半

 歌人の日記なので当然作歌についての歌や、歌人としてのわれの歌が出てくる。昼の森や、黄の粘菌から高温多湿の森の奥の場面が立ち上がってくるが、これはまさに日本の森で、多神教がはぐくまれる土壌のモチーフてある。「「やおよろず」は失われたか?」(『続 坂井修一歌集』所収)という坂井の歌論にも言及されている、ひとつの坂井の根底にある歌の原風景なのかもしれない。結句は詞書にあるとおり『風の谷のナウシカ』の台詞である。『風の谷のナウシカ』では腐海は水を浄化する存在としてあり、腐海の奥にいる眠っている人類が作り出した、環境改善のシステムである。歌も雑味が多い現実を濾過して詩にするというところで腐海に近い機能があるのかもしれない。黄の粘菌ははびこっていき、腐海も奥深く広がっている。坂井の歌人としての内面もそのように混沌と広がっているのかもしれない。

  あしたから俗事まみれの泥まみれ だけど今夜は学者にかへる

 坂井のライトモチーフについて、学と歌の二項対立や、それに戯画化されたわれが加わって三項あるという議論もある。この歌では学も、学者としてのわれと、組織人である俗事まみれのわれと二つに分かれている。教育人としてのわれにも本文で言及したとおりで、学の歌を一括にするのではなく、さらに学の中でどのようなわれが詠われているかなども興味深いトピックだと思った。
 日記は断片的な思考の集積だが、歌日記もそれに近いのかもしれない。それぞれ一首一首だが365首の連作であるとも読める。そのときに時々の作者の問題意識が、歌にあらわれてくるため、読み手も一首一首少しずつ、作者(歌集)に共感ていくのである。最後に一首引用して筆を置きたい。

  「ことばとは」われはしづかに手をあげて言ふべし「生命現象である」

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