聖地巡礼 方代忌2019.9.7のメモ

 第三十三回方代忌で基調講演のあとに会場からのコメントで十分ほどお時間をただくことになった。方代忌というと歌人以外にも方代を愛する人々があつまり、生で接したエピソードを多く聞くため、実際に会ったことのない筆者が何を話せばいいか恐縮しつつ考えていた。ひとまず自身の方代観について話して、方代を知らない世代の者がどのように作品を読むのかのケーススタディにしてもらうのがいいのではないかと考えついて、方代と聖地巡礼について話すことにした。
 歌集を読んだり、方代が詠まれた歌を読んだり、毎年瑞泉寺でひらかれる方代忌に参加するときに筆者の心持ちを考えたときに聖地巡礼に近い感覚がある。聖地巡礼というとキリスト教の巡礼をイメージする人も多いかもしれないが、サブカルチャーでは異なる使われ方をしている。デジタル大辞林では「俗に、熱心なファンが、アニメ・漫画の舞台となった土地や建物などを聖地と称して訪れること。」と説明されている。なお、歌人ならば歌枕を巡るということかと思うかもしれないが、古典の素養に乏しい筆者は歌枕というより聖地巡礼のほうがしっくりくる。なぜ方代短歌は聖地巡礼の要素をひめているのか、作品を読みながら考えていきたい。

  手のひらに豆腐をのせていそいそといつもの角を曲りて帰る 『右左口』
  瑞泉寺の和尚がくれし小遣いをたしかめおれば雪が降りくる
  首のない男が山をくだる時すでにみぞれは雪にかわれり

 一首目は瑞泉寺の歌碑にもなっている。ニ、三首目と同じ連作にあるため、〈いつもの角〉が瑞泉寺の参道ではないとわかっていながらも、バス停から瑞泉寺までの坂道を想起して読んでしまう。手のひらに豆腐を乗せるさまは涼しげで夏の場面のように読んだが、雪の歌もあり冬だとまた〈いそいそ〉といいつつ寒さで少し緊張した場面が喚起される。方代の写真集を見ているような連作だ。

  あきらめは天辺の禿《はげ》のみならず屋台の隅で飲んでいる 『右左口』
  よるべなき拳のごとき生涯を唐木先生拍手送れり

 方代は飲み屋によくいるイメージを評伝やこうした歌からもつ。が、実際はそこまで飲み屋に行かなかったという話も聞く。唐木先生は唐木順三のことで、「無用者の系譜」の論考が有名だ。無用者、文人気質について永井荷風や与謝蕪村などについて触れて書かれているもので、方代もその系譜に共感したのだろう。もしかするとその系譜に自身も連なる意識があったのかもしれない。また飲み屋における方代の歌は〈鎌倉の海辺も松も豊かにてそのころ呑屋に方代もゐて 岩田正『レクエルド(想ひ出)』〉という歌もあり、方代のいるところが“聖地”になっていくのである。また、鎌倉駅に降り立ったときにロータリーや小町通りをみて千鳥足の方代がここを歩いていたのかもしれないと考えるのも楽しい。

  霜がれの野径に出でて今晩の酒のさかなを摘みとっている 『迦葉』

 田澤拓也著『無用の達人 山崎方代』(二〇〇九・六/角川学芸出版)で方代は山菜や野草を摘み取ってすき焼きを作っていたという場面があるが、評伝と相まって歌になると、自然とともにある自在の方代像が立ち上がる。評伝と作品との間の共通項や、微妙な差異が読者のなかで、作者と若干異なる〈われ〉である方代像をつくりあげられていくのだ。
 楠見 孝、米田 英嗣は「"聖地巡礼"行動と作品への没入感 : アニメ、ドラマ、映画、小説の比較調査」(コンテンツツーリズム学会論文集二〇一八・三)で作品舞台の旅における旅行者の物語への没入感に、旅行者の心理特性の影響するのかを研究し、懐かしさ、ポジティブ傾向性と想像性が、旅における既知感による懐かしさや感動を喚起して、作品への没入感を深めることが明らかにした。つまり、方代を取り巻く環境に置き換えると、方代の歌集を読むことだけではなく、鎌倉の聖地を訪れたり、方代を知る人からエピソードを聞いて生な息遣いを感じたりすることが、方代作品への没入感を高めているといえるのである。方代忌や「方代研究」の継続が世代を超えて方代が語り継がれることに寄与していることは、言うまでもない。また、毎年特色のある基調講演と、「方代研究」に掲載されている写真などから、視覚的に、そして、常に新しい読みがなされていくのである。作品とそれを取り巻く文学的な土壌が読者のなかでは交互作用を生んで方代像を豊かにしているのである。