ふたりの博士 坂井修一とファウスト

 第一歌集の『ラビュリントスの日々』から順に坂井修一の歌集を読んでいくと、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの戯曲『ファウスト』を題材にした歌が散在していることに気づく。その主人公のファウストは哲学、法学、医学、神学まで底の底まで研究したという、あらゆる学問に精通した博士である。坂井も情報工学の教授で歌人である。本稿では坂井の作品と『ファウスト』を比較しながら、ふたつの文学世界を探究していきたい。

  月沈む研究室の格子窓めざむれば独房のごときよ 『ラビュリントスの日々』
  愛しつつ断念したるドイツ語でグレートヒェンがわれを呼ぶ声

 第一歌集『ラビュリントスの日々』には『ファウスト』の第一部「グレートヒェン悲劇」を題材にした歌がみられる。一首目は研究室で夜を徹したときの歌だが、『ファウスト』の冒頭部分でファウストが「ああ。に照っている、満ちた月。この机の傍で、己が眠らずに真夜中を過したのは幾度だろう。(中略)ああ、せつない。己はまだこの牢屋に蟄《ちっ》しているのか。ここは詛《のろ》われた、鬱陶しい石壁の穴だ。」と嘆く場面に自らを重ねたものだろう。独逸文学者の柴田翔は『ゲーテ「ファウスト」を読む』(一九八五・四/岩波書店)で、学者悲劇について解説しており、要約すると、世界の全てを知りたいと思っても、人間である以上、知り尽くすことはできず、たとえすべてを知り得たとしても、自分の人生にとっていったい何の意味があるのだろうかという疑問が生じる悲劇であると述べている。学者悲劇に苛まれるのは戯曲上のファウストだけではなく、坂井も同じなのである。
 二首目は地下牢の場面が題材である。グレートヒェンは、悪魔であるメフィストフェレス(以降メフィスト)に惑わされ、ファウストとの間の嬰児を殺して投獄されてしまう。罪の意識と処刑の恐怖に苛まれるなか、ファウストが救出にくるが、メフィストの影を察して、救出を拒絶する。ファウストが牢を去るとき、彼の内にグレートヒェンがファウストの名を呼ぶ声が響くのみである。歌に戻ろう、愛しつつ断念したというドイツ語に焦点を当てたい。角川「短歌」(一九八七・三)の『ラビュリントスの日々』の書評で栗木京子は〈雪でみがく窓 その部屋のみどりからイエスはりニーチェは離る〉を宗教や文学のような豊かな世界に感性をあそばせてすごした、十代のみどりいろに薫っていた日々と評している。坂井自身は学部生のときに南原實教授のドイツ語の講義で『ファウスト』を講読したことを振り返っており「坂井米川 短歌ホームページ」(http://sakai.my.coocan.jp/、最終閲覧日二〇一八・四・一〇)、ドイツ語はみどりいろに薫っていた青春のモチーフと読むことができる。グレートヒェンの、罪の意識と思慕の混沌から絞り出した呼び声を詠み込むことで、文学に没頭する文化的な営みと一度決別する作者の覚悟が痛切に表現されている。

  われは恋ふファウスト博士のスピードをはてしなきその乱雑もまた 『スピリチュアル』
  あきぞらをメフィストさまよふと靡きやまざりコスモスの花

 第三歌集『スピリチュアル』は、『ファウスト』の第二部の幕開けとともに始まる。一首目ではファウスト博士のスピードと乱雑を恋うとある。ファウストはときに直情的で弱さもある人間臭い人物として描かれている。仲正昌樹は『教養としてのゲーテ入門 「ウェルテルの悩み」から「ファウスト」まで』(二〇一七・一・新潮社)で、メフィストはファウストの心の闇が実体化したものかも知れず、その前提で読むと超自然的なことが登場人物の心の中の寓話や象徴であろうと述べている。引用歌はそこまで、カオスになってはいない。同連作中に〈三代といふはをかしきはかなさにブイヤベースは夕餉のひかり〉などの家族を詠んだ歌もあり、坂井はメフィストではなく、あくまで人間的なファウストに心を寄せていくのである。坂井は「人間は愚かだからこそ欲望や喜怒哀楽をもち、愚かだからこそ奥深いということを、短歌という小さな詩を通じて、いつまでも考え、感じ続ける」と逆説的に人間礼讃をしている(「未来展望」角川「短歌」二〇一一・一一)。父となりまた、老いてゆく父の子である坂井は先の人間性を肯っているのであろう。また、スピードについては、ファウストはメフィストとともに時空を超えて旅をする。情報工学について坂井は、「コンピュータの高速化は人類の歴史のなかで、特異なもので六十年のうちに一〇〇万倍の計算速度になった」(『知っておきたい情報社会の安全知識』坂井修一、二〇一〇年、岩波書店)と述べており、まさに魔術的な進歩のスピードである。日進月歩の情報工学の世界は、坂井の目にはワルプルギスの夜と重なって見えていたのかもしれない。
 二首目はコスモスの美しい花が悪魔のざわつきを知らせる。『ファウスト』第二部の「草花咲ける野に横りて、疲れ果て、不安らしく、眠を求めゐる。精霊の一群、空に漂ひて動けり。優しき、小さき形のものどもなり。」という場面を彷彿とさせる。

  メフィストふたたび来たり霜月の教官室にむく犬の声 『牧神』
  「光陰の濃きはいまさらいふなかれ」悪魔の犬は立ちてものいふ

 引用歌は連作「落日」の中に所収されている。一首目は、第一部でメフィストが勉学への希望を燃やす学生に、難解な議論を仕掛け翻弄する場面の台詞である。同じくだりに「すべての理論は灰色だ/そして生の黄金の樹こそ緑なのだ」という台詞もあり、柴田翔『ゲーテ「ファウスト」を読む』によるとゲーテはメフィストを通じて、生における輝かしい行為の直接性のみが人間を十全に充たしうるものであることを知りながら、それを全的に享受することは傲慢な営為だという意識があったという。坂井もアカデミアのなかで学に傾く学生に対して、メフィストのように生の黄金の樹を説きたいと思うことがあったのだと考えられる。

  ファウストをわれはうべなふ墓を掘る音聞きながら未来ねがひし 『縄文の森、弥生の花』

 この歌は『ファウスト』の最後の場面を題材にしている。メフィストとその仲間がファウストの墓を掘る音を聞きながら、その音をファウストは自らの土地の造成の音と聞き誤り、その土地が老若男女自由を享受できる土地となることを夢見る。そのとき、その「刹那」に向かい「止《と》まれ、お前はいかにも美しいから」言いながら地に倒れ、そして死んでしまう。物語のはじめにファウストはメフィストと、ある瞬間に「まあ、待て、お前は実に美しいから」と言ったら、メフィストの奉公は終わり、ファウスト自身は滅びてもいいと契約したのだった。その『ファウスト』のクライマックスともいえる場面を坂井は詠み込んだ。同歌集に〈大愚こと良寛和尚ちかよりて「そろそろ捨てよ」といひにけらずや〉という、仏教的な思想もみられる。坂井のなかで「止《と》まれ、お前はいかにも美しいから」と言いえるような境地が近づいてきている可能性を考えると興味深い一首である。
 坂井作品と『ファウスト』を比較し読んでいくことで、対話を通しての思索や苦悩、学者悲劇や、人間らしさ、生の輝きなど、坂井とファウストの思想の重なりをみることができた。同時に坂井作品と『ファウスト』の関係も終盤に近付いているという示唆も得られた。まだ一部に近づいたに過ぎない。〈Verweile doch! Du bist so alt.(Universitätsbibliotek) 『群青層』〉(止まれ!お前はいかにも老いている(大学図書館))という本歌取りはあるが、「お前はいかにも美しい」ではないのだ。坂井が今後何に対してその言葉を発するのか、知りたくも、まだ知りたくないのである。
   (「かりん」二〇一九・ニ所収)