サバンナと東京の距離 日置俊次歌集『ラヴェンダーの翳り』を読む

 二〇一八年に前歌集『地獄谷』を日置は上梓しており、その一年後に本歌集『ラヴェンダーの翳り』が上梓された。『地獄谷』は台湾での歌がメインだが、本歌集は帰国後の歌が中心に収められている。

  しまうまの耳のごとくに蠟の火のゆらぐたまゆら母が顕《た》つなり
  朝東風《あさごち》に髪のたうちて人ごみをうつむき歩むメドゥーサわれは
  嘆くべきことなりやたうたう日は暮れて戦闘機たちがトンボにもどる

 『地獄谷』では連作の歌の並びで、〈われ〉の驚きを読者も追体験できる手法があることを本ブログ(龍になる 日置俊次歌集『地獄谷』を読む・http://fuyuubutu.blogspot.com/2018/09/blog-post_18.html?m=1・浮遊物/最終閲覧日ニ〇一九年九月四日)
で述べたが、本歌集でも連作の構成でさらなる手法がみられる。一首目は巻頭歌だが、蠟の火がしまうまの耳であるという比喩が独特だ。仏壇の蠟燭と、サバンナのしまうまとは距離感がある。連作全体でしまうまのモチーフが読み込まれて、徐々にその世界に引き込まれ、蠟の火としまうまの耳が馴染んでくる。〈とほいとほい草原にわれは斑馬《しまうま》となりて探しぬ亡き母の風〉まで読み進めたときには、サバンナの草原を背景に母を偲ぶ〈われ〉が立ち上がってくるので、小説のような引き込まれ方をする連作といってもいいだろう。これは迎えて読みすぎているかもしれないが、しまうまを縞馬ではなく斑馬と表記したところに、日置の飼っているダルメシアンのルメを潜ませているような、隠れたこだわりを垣間見た。しまうまの連作は挽歌だが、次のメドゥーサの歌にも同じような連作の意図があるように思える。東京の中心部とギリシア神話という組み合わせだが、この歌はさらに〈朝東風〉をいう雅語が和歌らしさを醸し出している。うちに秘める怪物性をギリシア神話を借りながら全面に押し出しつつ、都会らしさや和歌らしさという古典から現代短歌をミクスチャーさせた連作だ。また、社会詠(時代詠?)にも以上のような手法はつかわれて、戦闘機がトンボにもどるという飛躍が無理なく行われている。なお、夕暮れの情景やトンボというモチーフは近代文学らしいと感じた。戦闘機が飛んでいる時代にモチーフを寄せて選んでいるのかもしれない。

  腕時計机の上におくべきか手に巻くべきか質問のあり
  「しつぽには骨はありますか」「骨がないと動きませんよ」と青ざめていふ

 本歌集にはユーモラスな歌も多く収められている。腕時計の歌は入学試験の一場面だ。かつての筆者の受験経験を思い出すと机に置くのが正解のはずだが、受験を終え読者としてこの歌に出会ったときに、どっちでもいいような感じがする。そうした受験生と非受験生の認識のギャップを、ある生真面目さをもって詠むとナンセンスさがおかしみを誘うのである。またしっぽの歌も、〈われ〉とダルメシアンのルメが散歩中に子どもたちに囲まれて質問攻めにあう連作のなかの一首で、〈われ〉は青ざめて、素朴かつ、子どもにとってはわからないのだろうが当たり前の問いに答えるのである。その時、左記のある生真面目さをもって、骨が仮になかったらどうしようなど〈われ〉はその当たり前を疑いつつ青ざめているのかもしれない。
 本歌集は前歌集と連作の手法で異なるアプローチがみられることと、当たり前のことに対する疑いやナンセンスさを楽しむ視点があることを本文で紹介した。前者は実験であり、後者は台湾から日本に戻ってきたときにより際立ってきたと考察もできる。『地獄谷』と続いて書肆侃侃房のユニヴェールから出ているので、並べると兄弟歌集のようにも見えるが、日常からの詩性の移り変わりに焦点を当てて読むのなら、前前歌集の『落ち葉の墓』と一緒に読むのも面白いかもしれない。最後に好きな歌を二首挙げて筆を置く。

  ダルメシアンのなめらかなぶちのこもれ陽《び》にわが墨蹟のごとく息せよ
  青いくるみが吹きとんでいくいやあれは地球のやうだと死者われが言ふ