餃子を囲んで 江國梓歌集『桜の庭に猫をあつめて』を読む

 歌集が編年体だと歌集の中で〈われ〉の時間が経過していき、時間的な膨らみがでる。歌の中でのイベントなどから時間の経過をみることもできるが、短歌は抒情詩なので〈われ〉や周囲の人の心境の変化から時間の経過が読みとれるということが、文学的な時間の経過といえる。

  ひとり居に沁みこむ雨の木戸あけてあなたの見せた蒼い朝顔
  これがニンフあれがワーカーと白蟻を指さすきみと暮れてゆく部屋
  婚六年夫から青虫の贈りもの紋白蝶にもう驚かず

 編年順に三首引用した。江國の夫は生物学の研究者で、意識的にか無意識的にか時間とともに生物に対する認識が、内面化していく。〈ひとり居〉とありまだ結婚前の回想の歌だろう、あなたも朝顔も木戸の外にまだいる。雨の降り、木戸は象徴としても捉えられ、雨のなかで朝顔をみせたあなたの頼もしさが読みとれる。次の歌は引き出しのなかの壜で白蟻を飼っているという背景がある。白蟻は一般的には害虫のイメージだが、それは人間からのレッテルであり、つまるところ昆虫である。白蟻の役割を教えてもらう情景で、歌のように様々な部分で生物学の知識を夫から聞いており、肯定的にそして柔軟に吸収している。結婚六年を経て、紋白蝶の幼虫をプレゼントされても驚かないという慣れがみられ生物の存在が内面化されている。生物へのスタンスの変化が歌を通じて読めるのは物語的な面白さがある。

  行者にんにく入れてむすめと包む餃子ひだの数など微妙に違へど
  日本語を話すとき英語を話すとき微妙に変はる娘のせいかく

 娘の歌は夫ほど多くはないが、娘と自分の違いを詠んだ歌も面白い。餃子はたくさん作るので内田クレペリン検査的な要素があり性格が出そうだ。ひだの数が微妙に違うとあり、微妙な性格の違いが顕在化しているのである。二人で餃子を作っているということは、一家全員で餃子を囲む情景を想像させるが、和やかな家族団らん像のなかに潜む小さな違和感を詠んだという細かな視点の効いた歌だ。次に日本語と英語で話者の性格が異なるいうのは時折耳にする。サピア=ウォーフの仮設的な話だが、実生活のなか言語によって、言葉のニュアンスが変わり、感情の表出が微妙に変わることはありそうだ。しかし、言語だけではなく娘として話す日本語と、海外生活者の妻としての英語という立場の違いも歌に読み込まれているのだろう。ここでも微妙に違うという、微妙さが強調されているが、先の餃子の歌よりもわれは大きなギャップを感じている。

  水入らずの水なることを思ふときそつと抜けだし揚げる春巻き
  みづうみに散骨したる祖父のこと「無味でしたよ」と祖母は言ひたり

 ステップファミリーを詠んだ歌は現代短歌において多くない。最近は日本もリベラルになってきているが、夫婦水入らずだとか、遠くの親戚より近くの他人など、家族意識がまだ強い。家族によってたが、そうした価値観は容易に乗り越えられるものではない。揚げ物を揚げるのは気まずさのような感情から一時避難するための口実であり、またその違和感を黙々と春巻きを揚げることにより紛らわせることになる。散骨の歌については骨噛みという風習があるらしい、また愛する人の骨を食べたくなるという心理もネットを調べるとあるようだ。しかし、それは全員に訪れる感情でもないし、第一印象としてはドキリとする。祖母の無味でしたよという告白を抑制的に詠っているが、この提示によって家族とは何かという問題提起、ドキリとした緊張感を読みとれる。安易に家族背景と歌を結びつけることはできないが、家族と自分という構図は大きなテーマなのかもしれない。

  パエリアに櫛形レモン搾るやう器用な手つきの意地悪もある
  壁どんを知らない夫に(雨だけど)やつて見せてる傘を転がし

 テーマによって読んでいったが、詠い方も特長がある。例えばレモンを搾る動作が器用さを比喩により修飾している。パエリアにある櫛形のレモンという細かい描写と、レモンを搾る器用さのある意地悪という細やかな指定のある展開がある。場面が比喩によりはっきりしているので細やかな指定があっても読者に負担なく、映像的なニュアンスで、意地悪さをイメージできるという上手さがある。また壁どんの歌も括弧による挿入などから、文体に若さを感じ、結句の傘を転がしというところに勢いがある。レモンの歌も壁どんの歌も異なる詠み方のようで緻密な計算が共通している。
 周囲のものを柔軟に吸収していくことで歌幅は広くなるし、また家族という定点観察も時間の推移や、われの認識によって随分と変わってくる。そうした変化に視線を向けつつ、巧緻に歌が展開する歌集だ。この柔軟性は著者の性質でもあるし、前向きに生や歌に向き合っているため豊かにもなっていっているのだろう。