薔薇色のまいまいつぶり 平山繁美歌集『手のひらの海』を読む

 表紙はお子さんの描いた絵があしらわれていて、母として、看護師として歌を詠む作者を象徴している。そして、海をイメージさせる装丁で楽しい気分になるが、どこか儚げな印象を持ってしまうのは、楽しい絵が描ける時期は一時に過ぎないからだろうか。

  子の産める身体であるのは後何年案外でかいアボカドの種
  超音波をするたび進化を遂げながらいずれ画面の域を食み出す
  〈芸術は爆発だ〉と言うようなモロー反射をにわかに見せる
  蟬の音に真昼まるごと包まれて赤子の本能乱反射する
  子のメール〈ポテトサラダが食べたい〉が四日続きて狼煙と気づく

 歌集の歌を陰陽に分けるなら自らの子の歌は陽が多い。アボガドの種の歌は出産前の歌だ。子の有無は短歌で多く詠まれてきており、ジェンダーや女歌などの切り口はあるが、平山は産むという選択をした歌人である。上句の問に対して下句で〈案外でかいアボカドの種〉と受けており、無骨なアボカドの無骨な種を自らに引きつけているところに生命力を感じる。出産に対して肯定的な歌が多く、近代文学にみられるようなタナティックな翳りはあまり見られない。人の生死に携わってきた看護師という生業により、タナトスよりエロスが強いのかもしれない。次の歌はエコー検査で胎内の子の発達過程をみている。いずれモニターをはみ出すといっているのは、子の生命力への賛美であろう。この歌は客観的な描写であり、母としての目線だけではなく看護師としての目線もはいっているのであろう。そして、乳児の反射は独特で、成育に伴い消失する。まさに今にしかみられない動きなのである。ときに岡本太郎のように大胆に、ときに蟬の音に包まれた自然全体に対して反射して、生を体現しているさまに感激する母の眼差しが温かい。ポテトサラダの歌は子が成長して、同じく看護師として働いているときの歌だ。いわゆるおふくろの味が恋しい精神状態ということだが、同業者ゆえに気づく苦労もあるだろう。そして、ポテトサラダを食べたいというメールで気づいてくれるだろうと子もわかっているという親子のメタ的なコミュニケーションを歌にしている。

  男にはできないだろう揃わない鼓動を内に育むことは
  こんなんじゃなくて綺麗な赤でなきゃ私のイメージに合わない鼻血
  新聞の〈お悔やみ欄〉に目を通し看護帽《キャップ》に後ろ毛きっちりしまう
  霧雨はやさしい記憶を呼び起こすナースコールが今夜は鳴らず

 矜持、職業意識、ナルシシズムなど自我の歌もどちらかというと陽の歌だ。妊娠という女性しかできない生理現象を、男にはできないだろうと言い切っているところに女性としての矜持がある。鼻血の歌はユーモラスだが、鼻血のように赤黒い血ではなく、バラのように赤かったり、パステルピンクのような赤だったりするはずだと止血しながら考えているのだ。とにかく面白い。止血しているときに私のイメージについて考える人も少ないだろう。さて、医療の現場は迅速なコミュニケーションや、病や社会的に困難がある人との接触の連続だ。母親モードではいられないし、歌人モードでもいられないのでスイッチが必要になる。ユニフォームというのは役割をまとうことであり、看護帽はその一つなのだ。お悔やみ欄に目を通すという素早さは医療職ならではで、上句でもう看護師モードになっている。そんななかでも一息つくときにふと抒情が湧くのが歌人の性でもある。夜勤は患者の対応によって長くも短くもなる。ナースコールが鳴らない夜は平和でゆったりした時間が流れているのだろう。霧雨は患者にも〈われ〉にも降り、やさしい記憶を呼び起こす。様々な〈われ〉が詠われており、そのたびに劇的にペルソナを付け替える必要がある。歌集を読んでいて、疲れてしまわないか心配してしまうが、疲れていそうなときに、自らの心の象徴のように登場するのが蝸牛である。

  伸び縮みしつつ進める蝸牛性別のなき軽さを背負う
  回したら外れるノブだ いやそれはたましい晒さぬマイマイツブリ
  白地図にまいまいつぶり現れて生くべき道に虹を架けゆく
  ゆっくりと明日へと登る蛞蝓は全速力に走るこの子か

 蝸牛の性別のなき軽さとあるが、女性であることの重荷や、家庭のことなどが蝸牛の殻に重ねつつ重ねていないという微妙な比喩なのである。歌と反対にして、仮に蝸牛が性別のある重きを背負うのならもっと歪なごつごつした殻で身動きがとれなくなっているのかもしれない。次の歌はドアノブからマイマイツブリの飛躍が面白いが、心のドアを開けられず、ノブをよくよくみたらマイマイツブリだったという歌だろう。メタモルフォーゼ的な歌だ。白地図というのもまっさらで、可能性に満ちているが、内省的なときに人生を思い描くように思う。そんなときにまいまいつぶりが出てきて虹をかけながら前途を祝うのである。子はまだ家庭をもっていないので殻のない蛞蝓ということなのだろうか。同じ看護師を選択して、少し違うが似ているというのが親子の関係なのかもしれない。蛞蝓と蝸牛を対比させて子をみる眼差しは、相手を子として、一人の人間としてみるという二重の視点がある。

  子を産みし女人の身体と蟬の穴この世に通じる暗闇を持つ
  新聞に包み生ゴミ捨てるときこの抱き心地はみどりごのよう

 本論では語らないが、歌集を読むと過酷な現実のなか切り抜けてきたことを示唆する歌がある。ときに叙事詩のように、ときに詩的に処理されながら詠われているが、歌は生とともにあることを改めて考えさせられる。出来事に対して読者は共感したり、考えたりすることくらいしかできないが、歌になり歌集になったことを祝ぐ気持ちが出てくるのは、筆者もまた短歌に携わるものだからだろうか。母、看護師という〈われ〉の提示をテーマとして論じてきたが、ひたむきに生きることで生まれる歌がどんなに心を打つか考えさせられる。
 いささかテーマに沿いすぎて展開してしまったきらいがあるため、テーマから離れて好きな歌を一首引用して筆を置きたい。

  木には木の訛言葉があるのだろう影まわしつつ銀杏葉は落つ