平成の朝餉 馬場あき子歌集『あさげゆふげ』再読

 本記事は二〇一九年十月のかりん勉強会の資料のノートとして作成した。本ブログでも一度『あさげゆふげ』について触れたが、書評が一通り出ている状態で、また、『渾沌の鬱』と併読してみても違った読み筋があり、再読する必要があると感じていた。
 
  絶妙な薄さに切られあるハムを剝がしてしんめうに二皿とする
  しごと一つしたともなくて夕焼けにけふは西瓜を食べ忘れたり

 かねてから馬場作品の中期以降に、やわらかな口語文体も柔軟に取り入れられてきたことがいわれている。穂村弘は(「短歌」二〇一八・五/角川文化振興財団)で〈都市はもう混沌として人間はみそらーめんのやうなかなしみ 『世紀』〉、〈そんなふうにいはれてもかうして咲くしかないアマリリスの長い長い二ヶ月 同〉を引用しながら、「「みそらーめん」の比喩や「アマリリス」の破調は大胆であり、(略)」、「文体の面では、中期から取り入れた口語がいよいよ自在感を増している」と評している。そのうえで引用したハムの歌などはただごと的で、意味はそのままで散文に解体すると途端に体をなさなくなってしまいかねないが、歌は韻律が引き決まっている。〈絶妙な〉や、〈しんめうに〉など緊張感を高める仕掛けがあったり、〈ハムを剝がして〉のハ音の繰り返しがあったりと工夫があるのだが、そうして分析するとかなりつくりこまれていることがわかる。次の歌も空虚な抒情が詠われているが、歌を読むと、仕事をしたともいえなくない状態で西瓜を食べ忘れたという、何かしているようで何もしていない歌である。このふわっとした着地は無聊感や、忙中閑のところで表出した、どこか寂しげな感覚のようである。穂村のいうように文体や歌の対象が自在になっているのがわかる。また、本歌集では何かしているようで特に特別なことをしていない歌も多い。穂村が引用した歌よりもさらに、本歌集では自在さが増している。

  心づくしの秋風はもう吹かざればわれはわがために糸吐く蚕
  午後みれば大三角形は完成し蜘蛛は確信に満ちて働く
  ある夜トイレに起きて廊下に出会ひたるねずみと吾れと狼狽したり

 生き物の歌は一括には出来ずに多様な詠われ方をしている。一つは生き物を内面化したり、なりかわったりするような歌だ。蚕の歌は文化の香りのする秋風がもう吹かない世の中になってきたなか、蚕の糸を吐き蛹になるという歌であるが、蚕の糸は馬場のしてきた仕事のことだろう。自らの仕事を形にして身に纏っていくのである。蚕は美しい織物や、シルクのツヤを想起するように、文化的で美的なイメージがあり、また成虫になるまえの段階でもある。美しくも余白のある蚕という斡旋に上句の諦念に、しなやかに抗っている葛藤をみることができる。蜘蛛の歌は盛田志保子が「短歌研究」(二〇一九・四)で「馬場さんが歌を詠む姿と重なる。」と評しており、蚕の歌同様に、馬場の仕事を成している比喩と捉えていいと思う。〈昆虫にもあらざる異形這ひ出でて生きにくき世の糸吐きにけり 馬場あき子『渾沌の鬱』〉という歌もあり、昆虫ではないというところに、有名な悪党おこぜの歌にもつながる異形のものへの心寄せがある。そうなってくると、もう少し広げて、馬場だけではなくひとの有り様という読みもできる。たとえば尾﨑朗子は馬場の虫の歌について〈人間が地球からほろびてゆく世紀はじまりてじつとりと鳴く油蟬 『世紀』〉など都市のなかの虫やほろびを示唆する虫の歌を引きながら、「大きな鎌をもつカマキリ、頑丈な鎧をまとうカブトムシであっても踏めばたやすくいのちを奪うことができる。脆弱ないのちでありながら図太くたくましく生きていくのが虫なのだ。そこに馬場は人間、民衆を投影している。」(「かりん」二〇一九・六)と記しつつ、滅びの予感を強める平成においての社会詠でもあると考察している。このように虫(生き物)の歌はまとめて読んでいくとまた一首のみを読むのと変わった視点が出てくるのである。ねずみの歌はまさに馬場がねずみに心寄せしながら、自らもねずみになったような歌である。ゴキブリもねずみも当然日常生活に支障が出るので駆除するのだが、あくまで生き物としては心寄せしていくのである。

  老友はデイケアにゆき長閑なり庭にかなへびはみみずを嚙めり 
  花柚子の実りを今日も地に落とす鵯に情念のごときあらずや

 生き物の歌は、観念的な思想が淡く表出した際に輪郭を与えることもある。かなへびがみみずを嚙むという場面が長閑な庭にある。小さな出来事かもしれないが、みみずの死とかなへびの恍惚が潜んでいる。両方とも形状が似ており、捕食行為でもあり、二つの生き物が一つになるような感覚もあるので、捕食以上のエロスを感じられるのだろう。下句との対比において長閑さをどのように表現するかが問われるが、老友がデイケアに行く表現が下句と距離があり成功している。鵯の歌は花柚子の実りを落とし続けている鵯に対して、情念があるのではないかと問う。鵯が花の美しさに嫉妬して落とし続けており、そこに情念があり、さらに鬼につながっていく。

 垣占めてひとり勝ちなる木香薔薇やがてのそりと出づる虎猫
  和賀村の鬼剣舞を遠くみて羚羊は山に帰りゆきたり
  かまきりは蟬嚙み砕く音させて石榴木《ざくろ》にゐたりしんかんと昼
  かまきりは嫌ひといふほどの魅力ありぎよろ目すばやさずぶとさ無惨

 木香薔薇の歌は垣に繁茂している木香薔薇が数の論理で圧してくる大衆を想起させる。そのなかでのそりと出づる虎猫は、木香薔薇にとっては異質なものである。しかし、虎猫は木香薔薇よりも動きがあり自由なところであるところが、アウトサイダーの象徴として詠まれているように読める。鬼剣舞の歌は、羚羊が山の上から鬼剣舞の様子をみているのだが、山の神を想起させる雰囲気がある。和賀村にまだ山の神がいるような気配があり、それは人型の鬼よりも羚羊に近い格好をしているというのだ。『もののけ姫』のシシ神も同じようなイメージである。かまきりの歌は二首引用したが、一首目は蟬を捕食している場面である。蟬は季節柄、戦争の犠牲者や多く鳴くことで大衆を想起させるが、かまきりがそれを嚙み砕くほどに齧りついているのである。そうしたイメージを想起しつつ、小さな世界で厳しい弱肉強食の営みが繰り広げてられていることで、歌人ははっとして魅入ってしまうそんな一瞬の歌だ。そんな悪役めいたかまきりを馬場は嫌いなようで魅力に感じると詠っている。暴力的でどこか狡猾な雰囲気のあるかまきりをまた異形のものとして愛すのである。

  本の山の本の糊なめ生きてゐるゴキブリなればさすがよたよた
  古代からの同居ものなるゴキブリは源氏の恋の糊も舐めけん
  夕顔の家に同居するゴキブリもゐたはずかそけく母屋《もや》をわたりて
  ゴキブリが愛しあふなど思はねど相つれて入る狭間《はざま》あるなり
  塩尻の塩羊羹で濃きワイン飲むときゴキブリは毒舐めてゐる

 ゴキブリについては連作単位で収録しているほど意欲的に詠われている。先のかまきりは愛憎ありという感じであったが、ゴキブリに対しては古典の香りを見出したり、罠を設置しつつ様子を思ったりして好意的に詠われている。先に引用したねずみの歌に近い。ゴキブリは石鹸や人の髪、そして本の糊など様々なものから栄養を摂るらしい。馬場家には大量の書籍があり糊を餌にするなら事欠かないのだが、ゴキブリなればさすがよたよたというので、糊口を凌ぐというような言い回しを想起するだろう。本の糊というのだから、貧乏書生のような詠われ方をしている。ゴキブリは王朝時代からいたというが、ゴキブリを起点に紫式部とつながるのが面白い。夕顔の歌は、『源氏物語』にもゴキブリがいて、物語には触れられていないなりにも屋敷を這いまわっているように詠われている。今は嫌われているが昔はどうだったのだろう。

  土大根《つちおほね》土深く白き身を秘めて雪に降らるる愛《かな》しきものを
  芋頭手にのせ見ればひとところ青き力の芽ぐみいきほふ

 さて、生き物の歌から読んできたが、生き物以外の歌でも暗喩的な歌が多くある。「平和のやうな」は短い連作だが野菜が詠みこまれている。野菜の姿と平和が合わさっている連作だ。大根は〈土深く白き身を秘めて〉とあり肉感的に詠われている。土の中で雪に降られて寒々としているが、近代文学に出てくるコケティッシュな女性のようだ。芋頭の歌は〈青き力の芽ぐみ〉とあるように、青年の頭部のような芋頭に芽が出ているという可能性を感じさせる歌である。生き物が社会や民衆のメタファーであれば、「平和のやうな」に登場する野菜は平和に関する思想のメタファーである。

  福のなき世かなさまざまな福袋そのふくらみを指で押す人
  築地市場諸国ばなしのざわめきにはじめて蛸を食べしおどろき
  忘れ雪美しき言葉ほろぼして温暖化すすむ春の眼痛し
  狂言師「花に目がある」と叫びたり空爆下の生者負傷者死者の瞠《ひら》く眼
  通じない会話はせぬが得策と若きは焼酎にレモンを呉れぬ
  小さい小さいあの雀こそ親なれば太る小雀に口移しする

 現代を切りとる視点も鋭い。福袋の歌は動作としてはどこか寂しげであるが、上句の福がないとふと呟く様子がさらに寂しげである。そっと押すことでさまざまな形の福に触れることができるかもしれないと、ダルな時代への歩み寄りがある。築地市場や忘れ雪の歌も、築地市場移転に伴う築地への親しみや、気候に伴う文学も温暖化はほろぼすといっている。時事的な話題に触れつつ、点の時間軸にはとどまらずに豊かに詠われている。狂言師の歌はまず引用の言葉が異様である。そして、結句の字余りから死者の眼が次々と開いていくさまがみられる。レモンの歌は若者のシラケ具合を詠っている。〈通じない会話はせぬが得策〉などと思っている若者はいないと思うが、実際に馬場の文学的な幅についていけてない若者はいるかもしれない。若者が客観的に描かれており、隔たりにさびしさがある。雀の歌はかなり社会に切り込んだ歌だ。団塊世代の親と氷河期世代の子どもが同居し、氷河期世代の子どもが引きこもりであるという社会的課題が存在する。そうした課題を雀に託して詠んでいる。本歌集はいまを切り取る歌が多いのも特徴的で、平成を総括する意識もあったのかもしれない。

  目覚めより牡丹咲く日の頭痛ありすべて未済のままに逝く季《とき》
  出発進行!ああしやしやうさん号令ではなくて安心の朝をげんきに
  ジェラルミンの熱き切子《きりこ》を返り血のやうに浴びて造りき特攻機エンジン台座 
  爆風で飛ばされし友は精神を病みて疎開し忘れられたり
  大火のごとき緋を傲然と掲げるゐし牡丹妖しも空爆の庭

 連作「空襲と牡丹」も戦時中と庭の一角が重なり詠われている大作だ。目覚めの頭痛と牡丹から連作は始まる。〈すべて未済〉というように、平成もファシズムの台頭などがあるし、昭和から平成にかけての好景気も戦争の影響がないわけではない。まだ済んだことではないのだ。回想は続き、電車の車掌の声出しと、戦時中の号令がつながる。しかし、「出発進行」という声から〈ああしやしやうさん号令ではなくて安心の朝をげんきに〉と安心しつつ、われに帰って半ば早口で抒情する。車掌しか登場しないが、この歌の裏には戦時中の軍人の軍隊式の場面がひそんでいる。

  軍国の少女のわれが旋盤をまはしつつうたひゐし越後獅子あはれ 『渾沌の鬱』

影山美智子は、『馬場あき子新百歌』(二〇一八・五/NHK出版)で上記を引用して、下記のように述べている。

 銀座を歩きながら現在のきらびやかさや「成女のおしるしのピアス」を見てふと、自分が軍国少女だったことが呼びおこされる掲出歌である。「軍国の少女のわれ」と「旋盤をまはす」という軍国時代の少女の姿と越後獅子を唄っている切ない姿が描き出され、「あはれ」で収めていく。この「あはれ」の一語が十六、七歳の少女の心情を吐露し、いとしさがわいてしみじみと忘れ難い一首。
 (略)
 作者は「私の原点は戦争」と言い切る。戦争の無残さを知るゆえ、それを後世に伝え遺さねばとの思いは深く、文学の先行者の責務として自らの戦争体験も旺盛に執筆されている。

 ジェラルミンの切子の歌も旋盤を回している場面の歌で、越後獅子の歌と同じだが、ジェラルミンの切子の歌はまさに、切子を浴びている臨場感のある歌だ。武器の製造により、それを使用する日本の若者も傷つくことや、みずからの青春時代を削り取っているような思いをジェラルミンの切子は象徴している。下句の破調は「短歌研究」(二〇一九・四)の座談会で指摘されているが、〈特攻機エンジン台座〉のごつごつしている感じがでているのと、言い切ってしまうと定型から少しはみ出るくらいのリズムで言えてしまう。〈爆風で飛ばされし友は……〉の歌も叙事的な歌であるが、物語ることを意識している。影山(二〇一八)の戦争の無残さを後世に残す意識が叙事的な歌に結実しているのであろう。空爆の庭は連作の最後の歌であるが、戦争の回想ののちに見渡す庭は、美しくも凄惨な様相がある。いいとも悪いともいわずに、牡丹が妖しく咲く庭は、戦争の回想の風景を地獄絵図的に描いた景色なのかもしれない。

  もみぢまだ早ければ滝の音きけり挑戦者入りるまでの静寂
  魚躍る小滝の音か打ち交はす諧調ありて盤上は秋
  黒白の石せめぎあふ時のまを床《とこ》の白菊すこしひらけり
  紫式部魂みゆるといひけらし棋神AIは何といふらん

 碁を題材にした連作「椿山抄」は囲碁の名人戦を題材としている。一首目は挑戦者の来るまでの緊張感を詠んでおり、名人は描かれていないが物音を立てずに、ただ滝の音が聞こえるという場面だ。二首目はお互いに囲碁を打ち続ける行為自体を詠んでいる。そして、三首目は対局の時間を白菊に託して読んでいる。どれも囲碁自体というより、対局の緊張感や、お互いの死力を尽くしている様、そしてその時間の流れを詠んでおり、棋士の生き様に帰結するのだ。そして、そこからさらに普遍的な人の息遣いのようなところまでを読んでもいいだろう。江國梓も「たとえAIに凌駕されようと碁を打つ人の姿は尊ばれるべきという祈りのように思われる。文化を支柱に生きるという存在の在り方なのだ。」と述べている(「かりん」二〇一九・三)。AIについても同じで、AIをネガティブなもの、無機質なものと決めつけないというのが馬場のスタンスである。紫式部は魂が見えるといったが、AIは何ていうんだと、AIに対する挑戦状とまではいかないが、試すような面白い歌である。AIに対して余裕を持って詠っており、短歌はしばらく大丈夫だと思わせられる歌である。
 本歌集では平成という時代や、自らの文学的営みを総括する意識が強く現れている。それは小さな生き物に託されることが多い。しかし、その総括のなかで詠われている生き物たちは民衆や社会のメタファーであり、深くそこまで読むことが必要である。