噴水家族(短歌連作+ひとこと) リンクを取得 Facebook Twitter Pinterest メール 他のアプリ - 12月 07, 2019 噴水家族セスナ機のように着水する鴨よ水の上では目を細めおり噴水のながれで鴨とわたくしがぐるぐるまわる夏の日射しに銅製の少女が踊る池のあり日本にウンディーネの話なしふきあげの鴨の家族の距離感よサラリーマンが熱心に撮る〈ひとこと〉近くの駅のロータリーに鴨の親子がいるが、家族って何だろうと考えさせられる。(「鳥ネプリ」二〇一九・十一・二四 所収) リンクを取得 Facebook Twitter Pinterest メール 他のアプリ
睦月都歌集『Dance with the invisibles』を読む - 10月 12, 2023 どうも薄曇りの日に読みたい。天気のよい午後でもいいのだが、装丁の雰囲気からか、先入観か、ふさわしい天候を待った。お供は紅茶がよさそうだが、あいにくそんなコジャレたものは常備しておらず、とりあえずインスタントコーヒーを氷水に溶く。 簡潔に雨降りて止む朝ありて瓦斯火にパン切りナイフかざせり 天候が気になるのはきっと書店でぱらぱら頁を捲ったときに雨の歌が目に入ったからだろう。サブリミナル効果というやつか、それなら効を奏したというべきで、今日は歌集にとってよい読書日和だ。秋、瓦斯火にパン切りナイフをかざしてトーストを切りたい日だ。 けはひなく降る春の雨 寂しみて神は地球に鯨を飼へり 雨といっても春の雨の歌もある。春の雨は秋の雨と違い匂いがあるし、光を湛えている。秋に引用歌を読むから春の雨が明確にわかるともいえる。にわか知識で人間は神に似ているらしいことは知っているが、神にとって小さい鯨は可愛らしくまた頭もよいので飼うのに退屈しない。青い小さな地球をすいすいと泳ぐ金魚くらいのサイズ感の鯨、神に共感できる。 円周率がピザをきれいに切り分けて初夏ふかぶかと暮るる樫の木 煙草吸ふひとに火を貸す 天国はいかなる場所か考へながら 円周率の歌は初めて読んで以来記憶に残っている歌で、以降ピザをみると円周率をまず思い起こす。歌ではピザに円周率が潜んでいたのだが、世界の至るところに円周率はある。先述の神同様に、ピザに汎神論的な存在感がありつつ、下句は静かに短歌的に結ばれる。次の歌も煙草の火を貸す情景か、贈与する動作に天国との類似性をぼんやりと考えている。いずれも歌を目の前にして、歌と同じことを考えさせられる。案外結論は出ず、煙草の煙のようにその思考は宙を漂う。 コンピューター・チェスの次の手を考へてるこんな小さな湯船のなかで ディープラーニングや生成AIが話題に出る昨今、ボードゲームのAIは古典的なものといえそうだ。ランダムな手のトライアルアンドエラーをシミュレーションで繰り返しながら最善手を模索するモンテカルロ法というものだ。ものによっては尋常じゃなく強いが、古いソフトには素朴さがある。脱線したが、小さな湯船のなかでコンピューター相手にチェスをすることは一つの世界の創造だと思う。いささか恣意的に歌を引用したが、歌集をとおして世界のなかに世界がある感覚を面白く読 続きを読む
濱松哲朗歌集『翅ある人の音楽』を読む - 7月 03, 2023 濱松哲朗は筆者と同年代で、「パチパチの会」という同年代の同人誌でご一緒したこともあった。早くから短歌に携わっていて歌歴でいうと先輩なのでいつも頼もしく活躍ぶりを拝見しつつ、一方的に親しみを抱いていた。なので本歌集は待望の一冊。装丁も組版もこだわりが感じられ濱松の文学への真剣さを感じさられる。 さてどのように読もう。以前、ある特集で秀歌五首を挙げて論じるというものがあった。秀歌を五首挙げ論じることが、それぞれの作品論のようなものになるのではないかという意図だった。論者がある基準で五首選んで、どこに惹かれたか、どう読んだのか論じることは作品群から新たな読み筋を探すのに有効かもしれない。 暗殺をのちに忌日と呼び替へて年譜にくらく梔子ひらく 冒頭の連作の一首。誰のことかはわからなず、前後の歌で図書館や書籍が読み込まれていることがわかるので、それで十分だろう。暗殺は下剋上を含む政争でなされる印象があるが、もうひとつ、古くは始皇帝、近代は原敬、俗っぽいが最近だと安倍晋三など枚挙にいとまがないが、力なき民が権力を討つ構図がある。つまり、暗殺される側には大抵深い業がある。それが忌日と呼び替えられるのは、そうした権力構造や、暗殺された側の業を覆い隠すばかりか、忌日という一見風情のある言葉で顕彰してしまう。歴史修正主義といわれることもあるが、その言葉以前に無自覚に権力者側、主流派が成してきた“修正”がある。下句は薄暗い図書館で厚い書籍の年譜ページに、真っ白く薫りを振りまく梔子の花が咲いていると詠っている。情景として年譜と梔子のくらさと白の対比もよく、幻想的で視覚と嗅覚が働く表現だ。しかし、それだけではなく、梔子は口なしの掛詞で、ひいては死人に口なしという慣用句も呼び寄せる。“修正”された年譜だけがくらくある視点からの真実を語り、暗殺した側もされた側ももう語ることができず、口なし、梔子を咲かせるのみである。この思想や技巧に富み、メタフィジカルで美しい梔子の咲く一首を読むだけでも、濱松の思想や文学性、美意識が垣間見える。冒頭で筆者は『翅ある人の音楽』は一筋縄ではいかない歌集であると実感したのである。 俺のことはほつといてくれと独り言つ 菓子パンはカロリーの塊である 旧かなで書き言葉の口語で時折自然に文語を混ぜる文体は硬派な印象をもつ。そして文語口語のいいところも享受してい 続きを読む
後藤由紀恵歌集『遠く呼ぶ声』を読む - 10月 21, 2023 蛇口はた床や言葉の少しずつゆるむ家にてちちははと暮らす 地下鉄に席をゆずられ老いてゆく父のコートや母の帽子も 我が家も築年数三十年すぎて補修が必要になってきた。今は簡単にクラックを充填できるキットが通販で手にはいるから便利だ。思えば自分も家族も歳をとり、この家は強風にあおられることもあったし、東日本大震災でもかなり揺れたので歪みは出てくるだろう。年月の経過は自分自身ではあまり気づかず、家を補修したり、家族が歳を重ねたときに気づくことが多い。それはネガティブなことではない。引用した一首目のように家族とは言葉も、関係性もどこかゆるんでいき、年月をともに過ごす存在として、良いことも厄介なことも混在しながら生きていくことになる。二首目、コートや帽子はしっかりしたつくりのものなら何シーズンももつ。父のコートや母の帽子といままで目にしてきたものを通じて両親の老いを感じている。この歌も所有物から所有者の老いを感じているが、たとえば地下鉄で席を譲られ父母が座ったときに、主体は座らず見下ろすかたちになったときに、その父母が小さく見えた、もしくは席を譲られたという話のあと、片付けや掃除をするときに掛けてあるコートや帽子を目にしたという場面が想定される。いずれも主体と両親の位置関係の変化があり、ある時間が込められている歌だ。 砂丘より遠く離れし冬の朝われは生まれし母の子として たましいの暑気払いなり大瓶のキリンビールを祖父に酌みたり 前の歌で砂丘を背景に写真に写る若き母の歌がある。母のなかに内在している風土や時代から離れたところにある自分の立ち位置を自覚する歌である。本歌集は家族の歌に深さと広がりがあり映画をみているようでもある。次の歌は墓参の連作の一首で、法事と瓶ビールという組み合わせでどこか懐かしさを感じる。祖父は父母よりは主体から心理的に距離があり、暑気払いという言葉の斡旋にどこか縁者の集う賑やかさを感じる。 土砂降りのように泣くことなくなりて時間はまるく繭のかたちに 本歌集は三十代から四十代に移る時期の歌が収められているという。公私ともに中堅層の年齢であり、自らの人生であと何が出来、何が出来ないかわかってきたり、人生においても社会においても責任ができてくる歳でもある。毎日を積み重ねていくと、人にもよるが、二十代のときとは異なる安定感が出てくる。時間が繭 続きを読む