はぁ出家しよ 川合康三著『桃源郷 中国の楽園思想』を読む

 いにしえの人が政争に巻き込まれたとき、権力や汚濁に倦んだとき、そして現代の私が勤めに行くときに思うことは隠遁したいということだ。時代や動機は違っても隠遁したいという気持ちは一緒である。SNSを見る限り共感する人も多いだろう。ひょっとすると人間は隠遁したい動物なのかもしれない。
 そんな思いで手にしたのが川合康三著『桃源郷 中国の楽園思想』(二〇一三・九/講談社)である。桃源郷というと仙人や猿が暮らし桃を食べてと、筆者のイメージが貧しいからか具体的なイメージができないのだが、どうやら無理もないことである。中国における隠遁とは官を辞し山にはいるようだが、一家で入るようだ。日本では出家し、その後遁世するという二段構造で、出家は仏教の教団にはいるということなので厳密には隠遁とはいえないらしい。なお、西洋のハーミットは砂漠に住むものという語源があり風土により隠遁の様相は様々のようだ。スターウォーズでオビワンが砂漠に住んでいたが、ハーミットに近いのかもしれない。隠逸といっても時代や個々人によって違うとは前述したが、本書では政治への嫌悪から個人の私的生活の享受という流れや、自己実現としての隠逸など時代によって動機は異なってくるという。たとえば無一物の生活を享受し樹上で生活していた許由という人物は、ある日水を飲みやすいように瓢をもらった。しかし、木に吊るすとうるさいということで捨ててしまったという。無一物の生活を歯を食いしばって送ったのではなく、簡素さを愛でていたということで、たましいの次元で究極のミニマリストなのである。また、潘岳という人物は自らの官吏としてのキャリアを振り返り、拙いとし、そんな拙い私は潔く引き下がるとして洛陽の都市と郊外の境界に住居を構え、池や数多くの果実が実る庭をつくった。そして「人生安楽ならば、孰《たれ》か其の他を知らん。」と述べる。潘岳から白居易や陶淵明につながっていく。白居易は若い時から高級官僚の出世街道を歩んできたが隠逸の願望は若いころよりあった。それが実現できたのが五十三歳で洛陽の邸宅を手に入れたときだ。そして五十八歳からは閑職につくことができ官と隠の両立に成功する。白居易は中隠と呼び、山に隠れるのを小隠、真の隠者は市井に住む者で大隠であるとした。白居易は社会的にも生活でも満足する境遇に落ち着く。漢詩にその思想は表れているが、川合の訳で一首引用する。

  地上篇
十畝の屋敷、五畝の庭園。
水は池一つ、竹は千本。
狭いと言ってはならぬ、町から遠いと言ってはならぬ。
膝を入れるには十分だし、肩をやすめるにも十分だ。
母屋があり亭《あずまや》がある。橋があり舟がある。
本があり酒がある。歌があり楽器がある。
そのなかにいる翁、白い鬚が風に揺らぐ。
分をわきまえ足るを知り、外には何も求めない。
鳥が枝を選んで、しばし安らかな巣を求めようとするに似る。
亀が穴のなかにいて、海の広さを知らないのに似る。
霊妙な鶴と奇怪な石。紫のヒシと白いハス。
みなわたしの好きなものであり、すべてわたしの前にある。
時に一杯の酒をロにしたり、或いは一篇の詩を吟じたり。
妻や子は楽しげ、鶏や犬ものんびり。
なんとゆったりしていることか、なんとのびやかなことか。わたしはこのなかで身を終えよう。

 白居易は高級官僚で、本書を読むと羨ましいほど順調にみえるが、現代に生きる人々の多くはそんなにうまくはいかない。筆者などは日々の生活のなかでたましいを遊ばせ、余暇に文化に親しみ、自宅でささやかな植物を愛でるしかない。この後退的発展の小さな中隠においては桃源郷はどこにもない。あるとしたら己の生活のなかにあるということになる。

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