七色のシェー 桜川冴子歌集『さくらカフェ本日開店』を読む

 教員生活と大学院生という3足のわらじの生活から、ラボを構え研究者となる時期の歌集。伯母の逝去や母の老いなどとも向き合いながら、水俣も題材にしており、われを起点にテーマが積み重なっている。

  カメムシを踏みつぶしたる生徒ゐて花橘の歌までも臭し
  「さえこさんと頑張るクラス」他人事のやうであれどもクラス目標
  先生と子は呼びかけておもむろにさよならと言う花を抱く背に

 カメムシの歌は、花橘の歌もカメムシの臭いがするようだという面白い歌だ。いろいろ和歌で読まれているが、〈五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする よみ人しらず『古今集』『伊勢物語』〉を筆者は最初に想起した。花橘の香をかげばカメムシの香ぞするだと大変滑稽だ。しかし、滑稽なだけではなく、嗅覚は記憶に残る。同じ教室にいる生徒や桜川は花橘の香りと、カメムシが関連づいてしまった。踏まれてしまったカメムシは気の毒だが、カメムシは青春の臭いになった。ちょうどヘラクレスが踏みつぶした蟹が蟹座になったように。生徒は中高生で自我が育っている時期でもある。さえこさんと頑張るクラスの歌は、同じ受験や生活を頑張るという同志の意識で教師と生徒が団結している。お互いの精神的な結びつきが動機づけになっているため、他人事のようではあるが、効果的なクラス目標なのだ。また、三首目は〈花を抱く背に〉とあり、教師の職を退いて、大学へと進むときの歌だろう。さよならの奥には励ましや寂しさなど含蓄があり、それを桜川自身もわかっているという別れの歌だ。〈ことさらに春は苦しい 進めない生徒がありて教師がありぬ〉という歌も収められており、先に述べたように同志という意識が強いように思える。

  コークス炉の匂ひだつたか伯母の棲む八幡《やはた》の路地で「シェー」と驚きぬ
  盆の夜は網戸より入る鈴の音の 川ん神さまのぼりよらすと
 (※川の神様が上っておられるという意味の方言)

 土地の歌というのだろうか。個人史と地域史や民俗が交錯した歌も多く収められている。八幡製鉄所の路地はコークスの匂いがたちこめていたのだろう。上のカメムシの歌にもつながるが、嗅覚と記憶の歌でもある。八幡製鉄所はいまも新日鉄として創業されているらしいが、当時の高度経済成長のムードの中で、赤塚不二夫『おそ松くん』のイヤミが行うポーズをとっていたという回想をしている。グーグルで調べれば一発なのだが、調べるとシェーも流儀があるらしい。

 右腕または左腕を垂直に上げ、手首を手の平を下に向けるように直角に曲げる。反対側の腕は肘を曲げ、ひじから先を床と平行とし、手のひらは自分もしくは上を向かせる。同時に左脚または右脚を上げて膝を曲げ、膝から先を床と平行または膝の角度を鋭角に曲げ、反対側の片脚で立つ。垂直に上げる腕と膝を曲げる脚は、反対でも同じ側でも、全体が左右反対でも問わない。漫画では、上げた足の靴が脱げ、靴下もずり下がった状態が多い。(靴や靴下がそのままの状態でもシェーは成立する)
なお、「シェー」と叫ぶだけでポーズを取らないこともあり、逆に「シェー」とは言わずにポーズだけ取ることもある[1]。
(Wikipedia、シェー、最終閲覧日二〇二〇・一・一)

 何に驚いたかはわからないが、幼少期は驚くべきものはたくさんあるだろう。どれも時代を象徴する言葉であるが、組み合わさったときに何か不思議なシュールな感覚がわきおこってくる。川の神様の歌は方言の歌である。方言はメディアの発達とともに減衰していくのだろうが、祭りや民話、文学などでは息づいている。方言の歌ばかりだと読むのに負担がかかるが、何首か連作内に登場すると言葉のリズムから地域性を感じることができる。

  連休は遊びに行かうね母を呼び嘘つききつつき書斎に籠もる
  論文は間に合わぬなり化粧して母は待つなり待ち続けたり

 母の歌は、老いた母と子の関係性で苦労や罪悪感などが直接的に詠われている。一首目は災害や老いなどから心配があり母を呼び寄せた歌であろう。しかし、そのことは直接的に言わずに、遊びに行くことなどで説得して連れてきたところがあり、その嘘に罪悪感を覚える。嘘つきと啄木鳥で言葉遊びのようにして軽みを持たせようとしているが、却ってそうしたレトリックが辛さを際立たせる。次の歌では大学院に提出する論文に時間が割かれて母にかける時間がない。娘の苦労をわかりつつ、その反面遊びに行くことも楽しみにして母は化粧をする。そうした、娘を思う気持ちも、叶えられないと娘にとっては辛いことになる。下句のリフレインがより切実さを強調している。ライトモチーフがそれぞれ際立っていて、重厚な歌集のため、感想を書くとテーマに沿いすぎてしまうきらいがある。一首独立している歌も面白い歌がたくさんあり、好きな歌を最後に二首引用する。

  どこまでもたどりつけない道に似て締めきり前のメロンの網目
  エジプトの墓より出でし義歯があるひと続きなる世界の果てに