くっきりとした四色の風 田中道孝連作「季の風」を読む

 本文は二〇二〇年二月のかりん勉強会「新人三賞を読む」用のノートということで作成した。筆者は第六十五回角川短歌賞受賞作である田中道孝連作「季の風」を担当した。本連作は建築現場の職場詠で、ユーモアや仕事の息遣い、ふと仕事場で思いがけない自然と出会うさまを描いている。

  ごめんごめん俺のでんわは糸電話 鳩がとまると通じへんねん
  くつしたの穴がほほえむはるのひにおかげさまでと手紙がとどく
  わが背中《せな》に白き翼があるような小春日和をひとりゆくとき
  君の机に蜜柑をひとつ置いておくぼくの言葉が飛ばないように

 まず、われや場面がみえてくる歌を挙げる。糸電話の歌はユーモアがある。連絡無精の言い訳を言っているのだろう。下句の方言がより自己戯画化を演出している。面白いのだが、職場で歌のような冗談をいう先輩はいるよなぁというあるある感もある。くつしたの歌は上句で不器用さをだしつつ、下句で手紙がくるという展開があるが、少し展開が弱い。おかげさまでというのが抽象的で、手紙がとどくというのが少し平坦なのかもしれない。しかし、ほっこりとした雰囲気は感じる。わが背中にの歌は、合唱で歌う「翼をください」を彷彿とさせられる。「翼をください」は子どもの頃からの大空への憧れを抒情的に歌いあげているが、田中の歌は力強い羽ばたきというより、哀愁を帯びており、白き翼も折りたたまれている印象をもつ。蜜柑の歌は伊藤一彦が選考座談会で佳作として挙げていた。筆者もこの歌は魅力に感じ、われと他者の関係がある歌で、外に開かれているように感じた。

  故障したタワークレーンにのぼりゆく上がれば 白き春の底見ゆ
  陽のあたるクレーンのよこで飯食えば雲雀が空を押し上げている
  クレーンの吊り荷を降ろし見上ぐれば黒雲のなか雷がかがやく
  四百五十トンクローラークレーン座る現場にうろこ雲浮く
  玉掛の人払いする笛をふくアキアカネ飛ぶ資材置き場で
  誰も見上げぬ朝の月 クレーンは秒針のはやさで旋回をする

 さて、クレーンの歌が五十首の内六首ある。クレーン単体で六首はかなり多い。クレーンの歌はしばしば目にすることがあるが、職場詠としてのクレーンは初めて読む。プロだけあってひとえにクレーンといっても種類や登場の仕方が異なる。一首目はクレーン自体も上昇するもので、タワーマンションの建設などでも目にする。上句が建築現場の描写で、下句で詩的飛躍をしている。概念的だが、霞んで白く大地がみえているのだろう。二首目はクレーンの無骨さと揚雲雀の対比である。迎えて読むとクレーンの高さと雲雀の高度が呼応しているのかもしれない。三首目は写実的だが、比較的既視感がある。おそらく建築現場で働くわれは天候不順による不安感なども感じ、読者以上に不安感を感じるのかもしれない。そこまで共感できるとわかってくる味があるのかもしれない。クローラークレーンというのはウィキペディアによると「クローラークレーン とは履帯と原動機を備えていて、不特定の場所へ自力移動して作業できる移動式クレーンである。 」とありかなり大型な重機である。メガロフォビア的な読みをしたくなるが、下句の短歌的まとまり方で牧歌的になるため、読みに迷う。巨大なクレーンとうろこ雲という写実的に読めばいいのだろうか。玉掛はクレーンに荷物を着脱する作業だが、危険なので退避させるのだろう。そんなときにトンボが飛んできたという歌だが、アキアカネの必然性にどれだけ説得力をもたせられるかが鍵だと感じた。先に挙げた蜜柑の歌は蜜柑ではなくてはならないような気がするのだが、アキアカネはどうだろうか。クレーンの歌は、クレーンと自然の組み合わせで成り立っている。破綻はないのだが、歌のつくり方がパターンになっているのが気になる。選考座談会の後半で東直子が文体が単調といっていたのも、結句が動詞の終止形で終わる歌が多く、リズムが単調であるというだけではなく、実景から自然というパターンによるものから感じたところもあったかもしれない。クレーンの歌では六首目のような歌が面白い。朝の月は淡くそして、朝は皆せわしく通勤通学をしているので目に止まることはない。しかし、職業柄空を見上げることが多い作者は見つけることができる。つい時間を忘れて魅入ってしまうが、クレーンは刻々と時を刻むのである。この歌はクレーンが生業もしくはリアリズムの象徴として立ち上がっている。

  かたことの日本語はすこし生意気なドアンズイ・ファン「これ、どうするか」
  炎天のひとなつごとに枯れてゆく白髪頭の型枠大工
  偏屈な泥芋のような建築労働者《はたらきど》 ことしの花を見ずに死にゆく

 社会に、他者にひらかれている歌を挙げてみる。外国人技能実習生はメディアで多く取り上げられているが、建築現場では特に実感としてあるだろう。主題としては、文化の違いや法整備、それを超えて人として描くなど様々な深め方がありそうだ。引用歌では言葉遣いについて言及している。すこし生意気なというのも、本当に生意気なと思っているわけではなく、親しみをこめて言っているのだ。テーマの重さに対して、歌はさらっとしている。筆者としてはわれとドアンズイ・ファンの関係性が見えてくる歌をもう少し加えていくと、人間像が生き生きと立ち上がってくるように思えた。次の歌は白髪が禿げていくもしくは、身体的な衰えから老いを感じているのだが、批評性がある。また、炎天のという初句が白髪の男のたくましさと、なつの激しさを修飾しており、一首のなかにドラマ性も見出すことができる。建築労働者の歌は比喩がいい。偏屈で泥芋という、生の厳しさと、生き抜くための偏屈さが比喩にあらわれており、逝去した労働者の像が浮かぶ。事故かもしれないし、過労かもしれないが、そうした男を桜をみたときに想起するところが挽歌になっている。白髪頭の男と建築労働者はそれぞれ一首ずつにしか登場しないがら普通名詞であることと、人物像の描写に成功しているため、登場するのが一首限りでも気にならない。しかし、ドアンズイ・ファンは固有名詞でインパクトもある。そして、言葉遣いの違和感だけでは外国人技能実習生についての切り込みが物足りなく感じる。主題性のある歌もあるゆえに、写実的な職場詠だけではない粘りを読者としては求めてしまうのだ。
 座談会では本連作を小池光が激賞して推したのが受賞に結びつく要因だったように思える。「歌のできる場面の背景がきわめてよくわかって、高所作業者がクレーンか何かに乗って運転している。わかりやすく真っ直ぐ平明に作り上げるというオーソドックスな歌で、わからない歌が一首もない。一つ一つが単なる生活詠、労働詠というだけではなく、非常にうまく歌になっている」というのが作品評のはじめにくる。そして、討議で伊藤一彦は完成度が高いということを強調する一方で新しさはないと述べている。東直子も「そうなんです。文章っぽくないですか。十九首目〈体温と、溶けあうような熱帯夜 夜の重さに寝返りをうつ〉。読点を使っているけど、「体温と溶けあうような熱帯夜」ってありそうな表現だ」し、二十首目〈耳たぶに銀のピアスを……〉、短文という感じにどうしても見えてしまって。」と小池のはじめの作品評に反する評を後半に述べている。また、東が指摘する文体の単調さだけではなく、本文前半で筆者はクレーンの歌の多さに言及したが。他にも、〈風そよぐ足場の下で昼寝するそよぐ風には赤とんぼ浮く〉、次の歌に〈振り向けば季節の風がかわるとき風のすきまに蜻蛉《あきつ》止どまる〉、一首飛ばして〈玉掛の人払いする笛をふくアキアカネ飛ぶ資材置き場で〉と蜻蛉の歌が三首も並んでいる箇所がある。そしてそれぞれの歌をみていくと、われが昼寝している歌、季節の境界にいる蜻蛉、工事現場の描写であり、季節の境界にいる蜻蛉は必然性があるが、他の歌は蜻蛉でなくてもいいような気もする。一つの連作に同じモチーフを何首かまとめて並べると、よほど工夫しない限り単調になってしまう。小池が選考座談会で述べたわかりやすさ・平明さという長所と、東が述べた文体の単調と文章っぽさはある意味表裏一体である。また、文体の単調さに加えて、モチーフの重複が多いことから単調な印象を読後感にもってしまうことも本文で示唆された。佳作も多く破綻もない、読者に寄り添っている連作ゆえに、疑問符が立ち上がりつつも受賞作となった。本作が今後の現代短歌の流れにどのように作用していくのか気になるところである。

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