散歩者の日記2019年11月

某日
 今日は亡き弟の誕生日だ。また、この日は短歌でお世話なっている方の誕生日でもある。不思議なめぐり合わせだなぁと毎年思う。そんなことと仕事は関係なく今日も遅い。ケーキ屋になんとか滑り込んで買うことができたので及第点な一日。

某日
 3連休一日目。出光美術館で「名勝八景 憧れの山水画」を見に行く。中国西湖から吉野の桜・龍田の紅葉、琵琶湖など幅広い山水画のコレクションが公開されている。
 さまざまな景勝地の美しき情景を山水画の中で想像し、そこに自らが遊ぶ様子を妄想する鑑賞の仕方を、中国では「臥遊(がゆう)」と呼びました。文字通り、寝ながらにして山水に遊ぶ、という意味です。つまり、山水画を愛でること自体が、部屋にいながらにして行える旅そのものなのです。(出光美術館ホームページ、http://idemitsu-museum.or.jp/exhibition/present/、二〇一九・十一・ニ最終閲覧日)
とあり、旅行してきた。山水画は絵から引き込まれるような迫力があり、その過程で作家の憧れや、遁世の気分が加わって閲覧者を絵の中に引き込んでいく。芭蕉や蕪村などの文人も愛でたであろう絵画を改めて見つめると歌がうまくなる気がする。絵葉書を買うのは恒例で、地味にコレクションしている。
 最近高村光太郎が気になる。

某日
 三枝昴之歌集『遅速あり』のブログを書いている。平出修の歌って知らないなと思いグーグルで調べたらなかなかいい。全集第一巻をポチる。大逆事件については詳しくなりそうだ。

某日
 祖父から文学において学ぶことはあまりないが、死ぬまで書かなければいけないということ勉強になる。野球とバラエティしか観ない晩年は詩人とはいえないでしょ。
とツイッターでつぶやいた。急に言いたくなったのだが、おそらく壮年期の歌人の歌集をよく読んでいるからだろう。出光美術館「名勝八景 憧れの山水画」の連作が十首できた。ある程度咀嚼できて歌になったということか。また美術館に行きたい。

某日
 仕事で久しぶりにアウトリーチした。いつもバタバタと調整事項だったり、対面でのケースワークが多いので新鮮だった。柳宗悦『民芸四十年』がなかなか進まない。しかし読んでいて銅鍋が欲しくなってきた。「美術は理想に迫れば迫るほど美しく、工藝は現実に交われば交わるほど美しい。美術は偉大であればあるほど、高く遠く仰ぐべきものであろう。(略)工藝の世界はそうではない。吾々に近づけば近づくほどその美は温かい」と柳宗悦は述べていて、用と美の不可分なつながりを唱っている。短歌においても美術的な態度と工藝的な態度とわけて考えても的外れではないように思える。とすると工藝は民衆詩に近い感覚か。工藝は日々追求していく絶対他力であるため、文学に当てはめるとかなりストイックな態度になるだろう。

某日
 疲労であまり読書が進まない。もう少しで『民芸四十年』が読了となる。

某日
 仕事で調べものをしているときに、クリティカルソーシャルワークという言葉を知る。論文を読むと、個人の問題は政治の問題でもあるという考え方がフェミニストアプローチに近い。言葉を重視しているところがナラティブアプローチと近く、内省にも焦点を置くところが、クリティカルシンキング的なのだ。ジェネラリストソーシャルワークからの潮流なのだろうが、より一層問題解決志向、脱構築志向が高いのだろう。現場レベルでも、いまのソーシャルワーカーは実践を通してコミュニティオーガニゼーションをしており、また、ナラティブベースで相談援助しているためクリティカルソーシャルワークに近いことをしていると思われる。そこからもうひと段階深く掘り下げて、社会全体に働きかけることが必要なのだろう。折に触れてまた学んでいきたい。

某日
 短歌の意味を失いかける。純粋に文学だけをする環境というのは天才のみに用意されている。凡骨は隅に閉じこもり粘土遊びでもすればいいのかもしれない。そんな当たり前のことを再認識すると鬱々とする。せめて平和に粘土を捏ねたい。
 そんな夜は和辻哲郎の『日本精神史研究』を読んで古代ロマンに思いを馳せる。

某日
 所沢の行きつけの天ぷら屋椿で昼餉を済ます。中丼とは天丼と上天丼の間で、海老が二尾ある。その後食後の散歩で航空公園まで行き、日本庭園でお茶とお菓子をいただく。今年は明星研究会にいけないので、晶子の歌にちなんで銀杏の練り切りを食べる。庭園を見ているとなんとなく印象派の画家が表現したかったものがわかる気がする。黄葉、紅葉しかけ、枯葉でさえも何色も光を反射している。素晴らしい庭なのに、茶屋の隣の客はスマートフォンのソーシャルゲームに夢中だ。日本人の多くは文学や芸術ではなくて、ソーシャルゲームに夢中というのが現実だろう。傍からすれば私がおかしな人なのだ。
 平出修の全集2,3を注文する。いつか平出修の歌を抄出して平出修歌集をつくりたい。
 レスリー・マーゴリン著『ソーシャルワークの社会的構築 優しさの名のもとに』を読む。ソーシャルワークのカウンターナラティブの本のようだ。医療や福祉は情報の非対称性もあり、こうした批判的視点が必要になってくる。積極的ソーシャルワークの章では、積極的ソーシャルワークについて書かれていたワーカワビリティのないクライアントに対するアプローチで、アウトリーチを度々しながらワーカワビリティを高めるというもの。国家試験にむけたテキストには紹介されつつもあまり言及がなかったので、興味深く読み始めた。読んでいくと、根性論のようであるが、そういう泥臭い部分も人間なのであるのかもしれない。必ずしも肯定的に書かれていない、私生活を送っているクライアントに対して、にこやかにしかし権力をもって侵入していくソーシャルワーカーが描写されており、改めて介入の異形さに気付かされる。また、ロボトミーの章では、社会の権力構造を支持するようにソーシャルワークが作用することについて書かれており、権力に自覚が必要だろうと示唆している。そもそもロボトミーというショッキングな事象にソーシャルワークが貢献していたということに、考えてみれば当たり前なのだが、苦い気持ちを持つ。エンパワーメントの章はさらに権力構造を明らかにしている。ソーシャルワーカーの言語、倫理によって、抑圧された人とラベリングされ、解釈されることについて、ナチス政権下の意味的殺戮を援用している。私はエンパワーメントという言葉があまり好きではなく、実際に日本のソーシャルワークにおいて、ストレングスという言葉は耳にするが、あまりエンパワーメントという言葉は聞かない。多民族国家化と、その自覚が欧米より遅くエンパワーメントが流行る前に、社会的包摂やダイバーシティという言葉が流行ってしまったのかもしれない。

某日
 同期のさくらというドラマが流行っているらしい。サラリーマンが共感できる内容。私は皮肉や卑屈にまみれだが、それも生存戦略だ。『日本精神史研究』がもうすぐ終わる。道元についての章が面白い。出家者と在家者の道が分けて考えられていることや、在家の孝を重視するところは儒教の教えが影響されておりダブルスタンダードなことは新しく知った。当方は浄土真宗なので聖道宗は念仏宗よりもあまり本を読む機会がない。しかし、出家者自らが仏を道を探求し、導くという考えはイメージ通りストイックだと思った。

某日
 省察実践的ソーシャルワークというものがあるらしい。ショーンが大元らしいが、デカルトから読むべきだろう。

某日
 週末だ。今週は疲れてあまり読書は捗らなかったような気がする。新たな資格の取得を考えている。読書活動もいくらか資格勉強に置き換わるかもしれない。
 歌はそこそこつくれた。ブログで多く発表できるように効果的な掲載方法を考えたい。
 短歌関係でたまに思いつきの無茶ぶりの指示をされると苦しくなる。
 デカルト『省察』を読みはじめる。

某日
 午後の歌会のみの出席。歌会だけの参加の日は疲労感が少ない。川野里子さんに評をしていただいた。当月の連作は将来歌集にいれよう。
 夕餉はぎょうざの満洲できくらげと卵炒めを食べる。好きな料理なのでレギュラーメニューにしてほしい。昨日思いついたFP取得の動機が高まる。
 杢太郎の紀行文を読んでいたら自然主義の中では、徳田秋声がいいと書かれていた。眠かったのでどの随筆かは覚えていない。

某日
 平出修全集2,3と、『サトゥルヌス菓子店』が届く。どちらも楽しみにしていた本。デカルト『省察』読了。哲学書は難しい。歌はたくさんつくれた。

某日
 仕事はつかれた。明日は早く帰りたい。
 短歌ももう少しで5年になるが、出る人は出て、出ない人は出ない。出ない人われはブログにでもコツコツと作品とエッセイをあげていこう。疲れているので短編を中心に読む。
 森鷗外『鼠坂』読了。鼠坂というねずみも登れない狭くて曲がりくねっていて急な坂が音羽のほうにある。そこにクレーンなどを用いて、趣味の悪い豪邸を建てた。あるじは旅順が落ちるときに大連で財を成した商人で、友人を招いて新築祝いを開いている。次第にある男についての中国での話がはじまる。自己本位で女を貶めた男の物語だが、鮮烈な幻想が、男の奥そこに秘めたトラウマを象徴している。
 森鷗外『独身』読了。医学士富田は客人に酒とその肴に饂飩を出すのが通例だ。饂飩は下女に買ってこさせるのだが、客はそのたびに冗談半分に独身批判をする。しかし、独身は貫き難く、途中で下女と結婚し苦労する地方判事補の話などもしたりする。のらりくらり聞き流して一人で気ままに寝るのが独身の自由さだ。

某日
 相棒と同期の桜というドラマについ魅入ってしまう。歌はつくれなかった(着想のメモは少し書けた)。歌集もあまり読めなかった。明日明後日で『風にあたる』をおさらいしよう。

某日
 一通のメールに鼓舞されることもある。
 実務に関しては人よりAIのほうが完全に優秀なんだろうと思った。

某日
 『風にあたる』批評会の日。この歌集はある読みづらさがある。たぶんわれのなかの感覚に依拠している歌が多いので、共感できないと届きにくいのかもしれない。批評会でもう少し分かってくるかもしれない。
 齋藤芳生さんの新しい歌集『花の渦』を読み始める。最初の連作を読むと読み応えがあって、齋藤さんの新しい歌集を楽しみにしてたんだよなぁと感慨にふける。
 昼餉は梅蘭。食べる機会が少ないので美味しくいただく。麺を揚げた焼きそばが美味しい。毎日食べると太るかもしれない。
 批評会後のルノアールでは詐欺っぽい男に世間知らずそうな若い女が騙されかけているところだ。都内のルノアールで結構見る情景で、その後どうなるのか。当方は大杉栄『獄中記』を読み始める。

某日
 旧岩崎邸庭園にいく。雨はあがったが湿り気がある。洋館の匂いがじめっと香り、存在感を増している。一室一室に唐草模様や、イスラム文化を彷彿とさせる柱の装飾が施され、設計したコンドルの美意識が惜しげもなく注ぎ込まれている印象だ。また壁にはオリエンタルななかで日本的な孔雀(鳳凰?)の絵画も書かれており、楽しめた。床も壁も天井も見回しながら歩くので、家の中を歩くというだけでも体力を使う。自らの良いものへの愛着が奮い立たされ、懐中時計もロイヤルロンドンの機械式がほしくなる。が、今使っているシチズンのクオーツも正確かつシンプルで実用的だし、悩む。
 その後湯島天満宮に行く。七五三と受験と結婚式が同時に行なわれている。菅原道真ということで私は短歌上達を祈る。
 そのまま神楽坂にいき、紀の善でお茶をする。あんみつは美味しかったが、抹茶ババロア推しということで、次回は抹茶ババロアを訪ねて行こう。
 大杉栄『獄中記』読了。かろみのある文体で時折、収容されている人や、堺利彦とのやり取りが和やかになされている。しかし、普段は少ない食事で縄をなう労働を長時間しており、禁錮なら気楽に本でも読めるようだが、獄中での生活は厳しい。大杉のようなユーモアや尊厳で相対化しなければ病んでしまいそうだ。『獄中記』をゆくゆくは書くと思っていて、それが希望にもなっていたのかもしれない。ヴィクトールフランクルの『夜と霧』も彷彿とさせる。
 ウェルスナビが資本金を減資。広告料のコストが高いらしいが、少し不安になる。ロボアドバイザーはしばらく様子見。

某日
 ゲコの会のネプリの鑑賞をブログに書く。自らのことは自らが語らねばならない。(じゃないと誰も語らないから)
 『戦闘妖精雪風』を買う。休みの日に一気に読みたい。

某日
 仕事で疲れた。仮眠しつつ森鴎外『かのやうに』読了。男が3人出てくる。五条子爵、その息子五条秀麿、秀麿の友人綾小路だ。子爵は近代の権化のような(に秀麿は思っている)人物で、歴史家になる希望を持ちつつドイツへ遊学してきた秀麿と水面下で思想的に対立する。秀麿は若い世代だけあって、歴史の記述に関して神話と歴史を分けて記述する必要性を感じており、哲学や宗教に対してデカルトのように懐疑から始まる。綾小路は秀麿の友人で快活で絵描きをしつつ高等遊民をしている。が本質的に秀麿と同じ性質がありそうだ。

某日
 殿ケ谷戸公園に行く。紅葉とところどころみられる。4000円で茶屋のスペースが借りられ、30人収容との事でここで歌集批評会をやってもいいかもしれない。ベテランと若手のニ人基調講演をしてもらうという。
 高齢者の写真家が多く、入ってはいけないところにぎりぎり入っている。ぎりぎりセ……アウト。昼は久々にボンゴレロッソを食べる。美味しかった。夕餉はココイチでスクランブルエッグカレーにロースカツを載せる。これもまた美味。

某日
 ちゃんこ鍋を職場の忘年会で食べる。ちゃんことは力士料理のことらしいが、鶏を主に使うのは、力士が四足になって負けるのを嫌がるという粋な理由らしい。
 帰りに半分酔いつつ自分はつくづくぱっとしない歌人(ですらないかもしれないが)だなと、星のない夜空を見上げて考える。