散歩者の日記2019年6月

某日
 会議が占める一日だったが、会議は民俗的営為と考えると面白い。仕事のあとは都内まで足を伸ばし、生業関係の昔の知人と新宿で食事をした。飲み会では大抵聞き役に徹するか、日々の生活を戯画化して話すことに終始する。コミュニケーションとしても詩でも戯画化は有用だと改めて思った。読書は電車で読む歌集のみだが、少し歌が作れたから上々か。帰りの電車でロックに語っている人がいたが、酒と音楽の日々という感じだった。そう考えると下戸で地味に生きている私はロックとは程遠い存在だ。クラシックでもジャズでもない。無音?。今月は飲み会が多そうだ。鶴亀鶴亀。

某日
 今日は再生紙の日だ。不要な紙や冊子をまとめて出す。軽く掃除機がけをして、歌集を読んで、ネットバンクの定期預金を開設した。
 東村山の北山公園で菖蒲祭りに行く。紫だけではなく、白、グレーがかった水色、黄色など様々な品種がある。湿地の中にすっと咲く姿が美しい。屋台も何店舗が出ていて、東村山という名の地酒や、シェモアという洋菓子屋も出ていて市を挙げての文化事業だ。菖蒲はドライフラワーにはできなさそうだ。薔薇とかでドライフラワーを作りたい。
 夜にうとうとしながら水平思考について調べていた。バンクシーも利用しているというが、水平思考は短歌的だと思った。ラップトップトレイがほしいと思ったが、百均で自作できる気がする。クッションに大きめのクリップボードをくくりつければ、工具不要で作れると思う。早速明日作成したい。

某日
 仕事は相変わらず慌ただしい。業務効率も悪いと思うが……。今日はラップトップトレイ作成に向けての物資調達と、明日の休みに備えての休日ムードの醸成が課題だ。

某日
 かりん勉強会の資料づくりと、庭木の剪定をする。かりん勉強会の資料は夜にまでなだれ込んだが、7割完成。明日仕上げよう。昼はぎょうざの満州でナスの味噌炒め定食を食べ、その後近くの自販機で冷えた甘酒を飲む。至福のひとときだ。洋服が中華の匂いになるなか、北海道行きの飛行機チケットを予約する。往復3万円で意外と高い。格安航空券などもあるようだが、ロビーが遠いなどあるようで、ANAにする。JALはたしかパイロットが飲酒沙汰になって問題になっていたはずだ。
 図書館で小池昌代詩集『雨男、山男、豆をひく男』を読む。私はジェンダーについてはノンポリなのだが、文芸において生の虚しさや滑稽さを描くときに、主体が男になりがちな気がする。社会進出しても代償は払っているということか。詩集は面白く読んだ。雨男の唐突な存在感と、葛藤。豆をひく男のニヒルさと、それをとどめているコーヒー豆。メタファに飛んでいるが、人間のあり方について創作している。
 『源氏物語』若紫読了。源氏のいるところ美女ありというくらい遭遇率が高い。若紫をさらうところは美しい源氏だから絵になるのだが、いまの倫理観からすると違和感がある。このあたりは国文学の方々も感じつつ、時代背景があるから、と読むのだろうか。惟光朝臣は相変わらず淡々といい働きをしている。
 ルトガー・ブレグマン著、野中香方子訳『隷属なき道』を読む。ベーシックインカムイチオシの本で、成功事例の研究が多く紹介されている。ベーシックインカムは労働意欲の減少の副作用があるというが、研究では投資や貯蓄に向くようで、雇用(生活)の安定や経済の活性化につながるようだ。また研究で印象的だったのはソーシャルワーカーがベーシックインカム導入の社会調査に導入されていることだ。行政と連携してソーシャルワーカーに活動の場を設定したり、投資することが社会の安定につながるという学びがあった。また、ベーシックインカムの際にソーシャルワーカーが「これが効果的だとは……」と若干苦笑いしながら評価していたような記述をみて、たしかに、ソーシャルワークの技術を尽くしてもベーシックインカムのほうが効果的だというと苦笑いせざるを得ないなと面白く読んだ。日本も徐々に人口が減ってきたらベーシックインカムもいいのかもしれない。まだ半分程度しか読み進めていないので今後が楽しみだ。
 金融庁「年金では足りない」資産運用促す(19年6月3日 17時57分・日テレNEWS24)の記事がじわじわ頭の隅に残っている。わかってはいたが、こう公式に表明されると開き直りかと思ってしまう。年金は減額されるものではない、年金範囲内でやりくりできない程度に福祉の歳出を減らそうとしていると婉曲的に表現しているようにもみてとれる。いま払っている年金は何なのだろう。とりあえず倹約と運用はするが……。
 月詠をやり逃した。明日絶対にやろう。

某日
 仕事はあまりうまく行ってない。生業の技術というより職場の構造的な話だ。もっとも、ソーシャルアドミニストレーションこそ技術だといわれればそれまでだが。昼はコッペパン一個。昼休みにかりん勉強会のお知らせをメーリスに送る。図書館に予約図書が届いているらしいが今日は月詠を出す日なので、明日借りに行こう。勉強会資料はもう一息頑張りつつ、見直しをすればほぼ完成だ。
 年金が将来もらえないという話で麻生財務大臣までもが2000万貯めろと言い始めている。子ども一人の養育費とちょうど同じくらいなのが皮肉が効いていると思う。『隷属なき道』を読みすすめる。たとえばニューヨークでゴミ収集員が6日ストをしたところ非常事態宣言が発令されたのに対して、アイルランドで銀行がストを決行したときは半年も問題なく社会がまわり、経済成長もしたことなどが紹介されている。すなわち著者は銀行員(などの中間マージンを得ている業種)は高級取りだが生産性がないと批判している。あと少しで読み終わる。明日は明日の本がくる。

某日
 そこそこ仕事は落ち着いている。ヤマザキのカレーナンを食べる。北本トマトカレー風と書いており、埼玉県の北本市はトマト栽培が盛んで、ご当地グルメで北本トマトカレーなるものがあるようだ。酸味の効いたカレーペーストがナンの中に入っている。トマトといえば斎藤茂吉や若山牧水も歌に詠み込んでいるが、トマトは果実ほどポエジーでもなく、大根ほど生活感もなく、文学的題材としては面白い気がする。
  赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり 斎藤茂吉『赤光』
 斎藤茂吉のトマトは熟れており、肉体のメタファという鑑賞もあるが、そんなおどろおどろしいものではなく、北本市に行って畑一面に実るトマトをぜひ見たい。
 トマトについて書いていたら、職場でトマトを2つもらう。身が凝縮されている感じで美味しい。『隷属なき道』読了。

某日
 自動車の運転は苦手だがそこそこした。たまに乗らなければ乗れなくなってしまう。残業代に税金がかかるシステムは嫌だなと思う。『源氏物語』未摘花読了。疲れていたのと、朦朧としつつあまり大きな展開がある巻でもなかった気がするので、ページがなんとなく進んでしまった。まぁネットバンクの開設の準備が進んだからよしとするか…。

某日
 今日もへとへとだ。帰りに栄養ドリンクを飲むようにしないといけない。源氏物語は紅葉賀を中途半端に読む。これは1から読み直さなくてはならないくらいうとうとしてた。『光のアラベスク』をn周目読む。読むたびに発見がある。そろそろ書評のアウトラインをつくっていかねば。明日は休み。さらに『光のアラベスク』を読む。あと、『源氏物語』、『木下杢太郎詩集』を読む予定だ。

某日
 雨が降ったり止んだりしている。気温も低く、シャツ一枚だと肌寒い。『源氏物語』紅葉賀読了。後半の源氏と中将との競い合いなどは、双方の溌剌とした青年っぽさがよくあらわれている。青海波の舞を舞う源氏ははじめて動的に描写されているが、ダイナミックというより典雅な感じだろう。中性的な顔という描写が多く、たとえば今でいう誰か考えたが羽生結弦あたりがなんとなく腑に落ちる感じもする。
 小池昌代詩集『夜明け十分』読了。日常の手触りも残しつつ、ふと深い思索の世界に飛躍する作品に、充実感とあこがれを覚える。よく世界を見ることだと自分が自分に言う。『木下杢太郎詩集』再読。評伝を何冊か読んだあとだから新たに気づくことも多い。そろそろ機が熟してきたか。『光のアラベスク』再読了そろそろアウトラインを書いていきたい。マヤコフスキー詩集『ぼくは愛する』読了。ページは少ないが文体は濃い。
 昼は地元の椿という天ぷら屋で天丼をたべる。丼の蓋から海老の尾が飛び出ているという粋はチェーン店にはない。あところもの質が違い、羽衣をまとっているように素材にころもが纏っている。好きな食べ物はいままで一つに決められなかったが、天丼かもしれない。その後クルミドコーヒーという西国分寺にあるカフェに行く。地域通貨の発行や、ソーシャルビジネスのコミュニティの展開などしておりひと味違うカフェらしいが、純粋にケーキとコーヒーを楽しむ。クルミド出版という事業も展開しているらしい。

某日
 梅雨入りしたらしく今週はずっと雨だ。紫陽花が咲き乱れているが、咲きすぎなのではないかと思うときがある。あふれるように細かいものが群がるのはどうも、異常増殖を彷彿とさせグロテスクな感じがする。仕事はそこそこだ。明日は休みなので、本をもっと読みたい。『源氏物語』花宴読了。源氏は舞も詩も一流という話と、有明の君と恋に落ちる話だが、源氏の万能っぷりが強い巻だった。読了後仕事の疲れが出て寝てしまう。十二時に起き少し「かりん」を読んで、歌をつくる。外に出ないと歌の題材が拡がらない。適度に散歩が必要だ。
 去年は暑かった。不快指数が高いことはもちろん、熱中症などの救急搬送が多かった。ネットではバケツクーラーなるものが注目された。バケツクーラーとはバケツ状の容器の中に氷や保冷剤をいれて、蓋に設置されたファンが空気を循環させると冷風が出るというもののようだ。発泡スチロールのクーラーボックスを使った自作クーラーもネットでよくみられたが、面倒くさがりの私はつい発泡スチロールを切る過程が億劫で、ほしいと思いつつも作らない。昨晩何かいい手立てはないものか考えていたところ、発泡スチロールのクーラーボックスを使わずに、クーラーバックを利用することで手軽に、作成できるのではないかと思い至った。クーラーバックのなかに保冷剤を入れて、入り口にファンを設置し、蓋を閉める。そのときファンを設置した逆方向は口を開くように固定することが必要だ。そうすればバケツクーラーと同じ構造のものが作れる。これで今年の夏は乗り切れそうだ。

某日
 休日。『源氏物語』葵を半分くらい読んで朝寝してしまう。能で観た葵上の筋書きで、比較できたので興味深かった。また能を観たい。軽く掃除機をかけて、カレー屋へ。その後近くの日本庭園の茶室で葛きりと煎茶をいただく。そこで葵を読了。入店のときは空いていて、雰囲気がよかったが、混んできたタイミングで読了したのでよかった。早々に出て、庭をまわる。
 ツイッターでは阪急電鉄の広告が時代に即しておらず、恵まれた世代の視点で不愉快だとか、ブラック企業精神があるなど話題になっていた「阪急電鉄「働き方啓蒙」中づり広告「月50万円」に「不愉快だ」など批判、掲示とりやめ - 毎日新聞(https://mainichi.jp/articles/20190610/k00/00m/040/238000c、最終閲覧日2019.6.11)」。たしかに不愉快なのだが、もはや上の世代は、現実を認識できないことが改めてわかり、日本の社会問題が解決されないのは正しく理解できない層が実験を握っているからだと腑に落ちる。全く隠遁するより他ない
 『源氏物語』榊読了。源氏が后の妹である有明けの君に逢瀬を重ねているところを右大臣に押えられ…后の憎しみは増すばかりなのだが、このあたりから人物の相関図の複雑さを感じてくる。この人、紅葉賀にいたっけな?など。まずはウィキペディアを参照しつつ読み進めて行くしかない。
 泉鏡花『朱日記』読了。すべてが朱く美しい小説。舞台の町が生も死も超越したただただ朱い夢見ているのだろう。泉鏡花『雪霊記事』読了。『朱日記』から一気に白い吹雪の世界へ。雪女かと思ったら期待をいい意味で裏切られる。それにしてもとことん白い世界だ。最後はそうか、お約束な感じだ。主人公は三十五歳らしく、三十路でも幻想小説の主人公になれるのかと自らを顧みた。
 オリックス銀行の開設申請書の作成完了。ちまちま定期預金で貯めていくのはささやかな楽しみだ。それにしても日記をつけてると自己完結した日々を送っている。ツイッターでは歌人の活躍がちらちらみられるが、こちらは無名をいいことに短歌的に平和すぎる毎日だ。歌の巧拙もあるだろうし、それに加えやはり影が薄いのだろうか。

某日
 泉鏡花『雪霊続記』読了。源氏しかり、あまり美しいけど労働と程遠い世界で近づきすぎると自分自身がつらくなる気がする。そもそも疲れていてファムファタルに魅力を感じない。あんみつとか、プリンアラモードをカフェでつついたほうがいいと思ってしまう。バランスをとって次の休みはプロレタリア文学を読もうかしら。
 歯ブラシの環境負荷について考えている。竹製の歯ブラシはあるらしいが日本には普及しておらず、生産も安定していないらしい。指で歯を磨くということもできるらしく、早速やってみて、思ったより磨けている感じがする。歯間に詰まったものなどは爪楊枝などを使えばいいのか。
 『光のアラベスク』書評もがしがし進行。『レ・ミゼラブル』もそのうち読みたいなと思ったりしつつ、歌を抜いていく。かりん勉強会の資料も明日、明後日で仕上げなくてはなぁ。

某日
 職場でそばバイキングだった。十三玉食べる。『源氏物語』花散里読了。しんみりとした帖。こういう雰囲気は好きだ。

某日
 八十円のカップ麺を食べて十二時間働くということに現代性が集約されている。感情労働で多くの人が疲弊しており、超越するにはユーモアしかないかなと思っている。自己戯画化できなくなったところで私も疲れ果てるのだろう。今日はかりん勉強会のレジュメを微修正してPDFファイルにして、名簿や会計を更新する。明日は職場の飲み会でできないのだ。
  いまはなき星の影さす銀漢に舞はな世阿弥の夢のつづきを 松本典子『裸眼で触れる』
 何度も歌集を読んでいると、流してしまったがよく読むといいなぁという歌が何首かでてくる。この歌もそうである。〈さくら咲きわれは舞ふのみだれもみな代役のきかぬいのち生きゐて〉が『裸眼で触れる』のなかでも特に印象が強く、また多く引用されているのだが、〈いまはなき星の影さす〉の歌も能が世阿弥から現代へ、現代からその先へ受け継がれている様が読み取れる。われ自身も夢幻能のシテのように現れる可能性があり能の永続性を表している。〈舞はな〉の意志もちょうどよく、〈舞ふべし〉や〈舞はむ〉だとやはりダメなのである。
 仕事が忙しいと短歌が遠く感じ、平日でもなんとか気分を変えて歌を詠めるようにしていかねばならないと思うようになった。最近は休日にまとめて詠めばいいと思っていたりもしたが、どうもそうすると短歌が遠くなるように感じる。木下杢太郎の評伝でもそんな葛藤の描写があった。彼と私は雲泥の差があるが、なんとか数日は平日でも詠めるようにしていきたい。

某日
 今日の午前中はかりん勉強会、午後は東京歌会。昨日の疲労はアリナミンでなんとか対処できた。歌に対しては川野さんや大井さんに勉強になる評をいただけて、歌の方向づけになった。歌会あとは若手でコメダ珈琲に行く。かりんの日はいつも心地良い夢をみている気持ちになる。歌は三首しかできず。やはり平日につくれるようにまたシフトしていかねば。

某日
 仕事はそこそこ。『源氏物語』須磨読了。流罪になった源氏はとにかく泣く。また邸宅や源氏の衣類は、流されてもなお優美だし、ヒロインもちゃんと須磨には須磨でいる。
 『光のアラベスク』の書評を進めているが、その前の歌集でどのような歌を引くといいか思いついたりして、少し進展がある。『耳ふたひら』を再読する。
  不意打ちの雨も必ず上がるから島の娘は傘を持たない 松村由利子『耳ふたひら』
 雨のことだけではないだろう。沖縄や付近の島が、大和と薩摩に搾取されてきた歴史や、蹂躙されてきた諸々が含まれているのだろう。そして、それ以外の個人的なライフイベントについても止まない雨はないという捉え方をするのが島の人びとなのだろう。この歌集を手にしたのは「かりん」に入ったばかりのときで、何度も読み返しているが、引用歌がこれほど示唆的に感じたのは今日がはじめてだ。やはり歌集は何度も読むことだなぁ。歌は二首できた。週十首つくるノルマはなんとか達成。

某日
 仕事はかなり忙しくもやりがいがあった。仕事はソーシャルワーカーというより、心理士やエスノグラフィー的な感覚が強い気がする。帰ったらダウンタウンの浜田が平成生まれの芸能人にクイズを出し、外すと馬鹿にするというクイズ番組をやっていた。社会の嫌なところを凝縮している番組だ。また、浜田の権威的なところや、いわゆる体育会系的なところも、仕事終わりに見るものではないと思った。もはや感情労働だ。
 『源氏物語』明石読了。京都に戻ってしたが、明石の君を泣かせてしまう。うーん。
 山形県沖で大きな地震がある。大きな被害はまだ確認されてないそうだ。
  観賞用鯨飼いたきふたつ三つ丼鉢にあおく泳がせ 松村由利子『大女伝説』
 『光のアラベスク』の書評も進行中で、『大女伝説』も通して読まなければと再読している。観賞用鯨ってかわいい。捕鯨に関する社会詠が続く中に、ぽんと観賞用鯨が入ってくる。人懐っこそうで、喜ぶと潮を吹いて丼鉢のなかをぐるぐる回るのだろう。あおく泳がせというのが詩的で、全体をかわいさで終わらせていない。

某日
 水道水を毎日飲んでいるが、夏は少し味が落ちる。たまにミネラルウォーターを飲むと雑味がなく、逆に甘みがあり驚く。歌集やら小説やらをゆるゆる読みながら書くブログを書きたいと思っている。散歩者の日記が終わったら、来年はゆるゆる読書日記とかしてもいいかもしれない。新太平記などは長いので結構充実感あるかな。全歌集でもいいかもしれない。上司小剣『鱧の皮』読了。さすが硯友社という感じで江戸情緒ある小説だった。
  君という全集惜しくも欠けており美本なるべし二十代の巻 松村由利子『大女伝説』
 文学が好きな人同士の相聞歌だろう。初期作品集のように瑞々しく、また、尖っており、挫折もある。そうした君の生をみたいという抒情に惹かれた。

某日
 定期的に短歌について焦りを感じる。ツイッターをみると多くの人が総合誌で華々しい活躍をしている。私もいつか総合誌に歌を載せてもらえるほどになりたいものだと考えつつ出勤。仕事は今日も多かった。雑多な仕事が多い。最近、推しという言葉を散見する。どうやら二次元のキャラクターやアイドルなどを好んでいますという表明らしい。かつて流行った萌えと微妙に違うようだが、推しと言っている人の使い方を聞く限り、かなり萌えと近い気がする。私に推しは存在しないと思っていたが、強いていえばこうぺんちゃんかもしれない。コウテイペンギンのあかちゃんのイラストキャラクターである。ツイッターやLINEのスタンプでよく見かけるが、最近は西武線にも採用されており、駅のホームや電車内でもこうぺんちゃんに会うことができる。その名の通り肯定してくれ、出勤してえらい!とか、朝起きてえらい!と褒めてくれるのである。世の社会人は肯定に飢えている。
 『源氏物語』澪標読了。六条御息所が亡くなってしまった帖である。斎宮をめぐる源氏の逡巡が今だととんでもないわけだが、うーん。

某日
 『光のアラベスク』書評がだいぶ形になってきた。削ったり足したりしながら洗練させていきたい。『源氏物語』蓬生読了。末摘花の君の生活が貧しいながら、気位がありよい。そういうタイプはやはり生きにくいのか、孤独だ。末摘花はあまり良く書かれていないが魅力的な人だと思った。さて、別の原稿で山崎方代について書きたいのである。

某日
 職場の付き合いで、お好み焼き屋にいった。昔からもんじゃやお好み焼きは好きだ。中野のお店も美味しかったのでまた行きたい。歌は全くできず進まず。原稿依頼の重なる期間に痛い飲み会でもある。

某日
 『源氏物語』絵合読了。源氏の絵画に関する才もみてとれた。いろいろ葛藤もあるだろうが斎宮に対しては養父をしっかりしている。今後の急展開を予感させる終わり方をする。

某日
 月曜なので忙しかった。帰って方代関係の文章を仕上げる。あとは推敲を重ねるだけだ。『光のアラベスク』書評も同じような状態で、なんとか同時締切は乗り越えられそう。『源氏物語』松風読了。明石の君が上京するというワクワクする帖のはずだったが、疲労であまり頭に入らなかった。なんとか眠気をうち払って久しぶりに、岩波文庫の斎藤茂吉歌集をめくる。

某日
 仕事はばたばたしている。定時内に明らかに業務量が収まらない。マルチタスクをしても終わらないので、やはり多いのだろう。そんな残念なサラリーマンだが、ここ最近インデックス投資が気になる。月給でこつこつ貯めるしかないのだが、投資をすればいくぶんかスキップできるだろう。とはいえ、いまは経済的指標は低迷中なので世界経済と相談して着手していくかもしれない。それにしても定期預金の利率はもう少し上がらないものだろうか。
 『源氏物語』薄雲読了。明石の君の葛藤が特徴的な帖だ。明石の君に父が建てた家から、自らの邸宅に引っ越しさせようとするところなどは強引さを感じる。
  けだものは食《たべ》もの恋ひて啼《な》き居《ゐ》たり何《なに》といふやさしさぞこれは 斎藤茂吉『赤光』
 『赤光』は野蛮性を秘めているとか、茂吉の強い自我が反映されているという評があることを思いつつ、一首ひいてみた。引用歌では茂吉はけだものに思いを寄せるのであるが、医学という解剖や、患者との接点により、生について即物的に接する世界に生きていることも、野蛮性の一因なのではないかと考える。しかし、その力強さは読者、とりわけ実作者である読者をどこかに連れて行ってくれるような感覚をあたえる。これも好んで読まれる一因だろう。
  卓《たく》の下《した》に蚊遣《かやり》の香《かう》を焚《た》きながら人《ひと》ねむらせむ処方《しよはう》書《か》きたり 『あらたま』
 医師の歌であまりこの歌は引かれないが、残業か当直のときの気だるさがよく出ている歌だと思う。医学を歌にするときに現象としての面白さはわりと目が引くのだが、こうした職場詠も医師としての茂吉の面影がよく見える。あと斎藤茂吉のような医師とは仕事がしにくいだろうなぁと思った。杢太郎のほうがいいかな。

某日
 朝寝をしたところ面白い夢をみた。畑が並ぶところで、どこかの駅を探している。少し坂を下ったところで何人かが作業をしている。なんとか不動尊という小さな祠もいくつかある。その作業というのが野菜を、木の皮でつくった紐で束ねて、さらに土の中から木の根を引っ張り出して、巻きつけて埋めるというものである。そうすると長期間保存できるらしい。なぜか手伝うのだが、あとからそこには歌人のOさんの実家があって、それゆえに手伝ったことがわかる。一通り作業を太陽の下で行う。ときおり飛行機がかなり低空飛行で飛んでいく。離陸時はエンジンがうるさいが、着陸時はそうでもないなと思いつつ作業をする。それが終わると自宅に招かれ、少しみんなで手品をして、ソファで眠りにつく。ここは第二の故郷だなと夢の中で強く思うのだが、結局は夢の中の場所なのである。
 『源氏物語』朝顔読了。このへんで源氏は私と同年代になるのだが、いろいろと若々しい。源氏からすると私は世捨て人にうつるだろう。源氏の妻は大変だ。山崎方代の散文はほぼ完成。ほっとする。
 昼はインドカレーを食べる。ほうれん草チキンカレーとマトンカレーは鉄板の組合わせである。食後は茴香を口に含みさわやかだ。カレー屋のテレビでは、令和初の台風三号が関東に直撃かと報ぜられている。『光のアラベスク』書評はパソコンをひらくと結構形になり始めている。明日少し編集して推敲していく感じになりそうだ。斎藤茂吉も読みすすめる。彼にとって赤って自我の色なのかもしれない。ユングも赤の書ってあったな。
  青草《あをくさ》のほしいままなるヴエルダンに銃丸《じゆうぐわん》ひろひ紙に包むも 斎藤茂吉『遍歴』
  むなしき空《そら》にくれなゐに立ちのぼる火炎《ほのほ》のごとくわれ生きむとす 同『ともしび』

某日
 平日の割に、仕事のあとに短歌活動をたっぷりできた。原稿の分量の増量依頼がきてヒヤッとしたが、なんとか対応できそう。歌の注文がはじめてはいる。飛び跳ねるほど嬉しい。

某日
 職場のソーシャルワーカーの飲み会。仕事の話では、私の実践しているナラティブアプローチと課題中心アプローチの折衷について語った。お互いの弱点をフォローしているのと、短期処遇から長期に渡って使えるもので、いずれまとめてもいい。仕事以外では結婚と仕事と自分の時間という3足のわらじについて話した。人生が一番難しい問いかもしれない。

某日
 日生劇場でオペラ「愛の妙薬」を鑑賞した。はじめてのオペラだったが、素晴らしかった。誠実で繊細な青年ネモリーノと、移り気で美しいヒロインのアディーナの愛の物語。愛の妙薬というキーアイテムが出てくるが、ちっとも魔法の道具ではない。運命とそれに抗う煩悶が魔法のような結果をもたらすのだ。詳しくはウィキペディアを読んでほしい。ドゥルガマーラ博士はトリックスター的な立ち位置なのだが、歌も滑稽でおどけており、一番リアリストだ。ベルコーレ軍曹はライバルとして描かれるが、実は一番損な役回りで大人な対応を実際はしていたようだ。彼の中盤以降の言動すべてがネモリーノとアディーナのことを考えて一肌脱いでいるようにも感じる。はじめてのオペラは声楽、演技、演奏が一度になだれ込んできて圧倒されていた。是非またオペラに行きたいものだ。