散歩者の日記2019年7月

某日
 菊水亭という所沢のホテルと、ゴルフ場と、食事処が合わさったようなところに、母と昼食を食べに行った。曇っていて狭山湖の湖畔は霧がかっていたが、水鳥が体重そうに飛んでいたりと風情がある。菊水亭は中華かメインで、卵焼きの黒酢あんかけや、牛肉のオイスター炒めなど美味しく楽しんだ。
 定期預金に振込もうと銀行に行ったところ、免許証を紛失していることがわかった。コンビニで免許証をコピーしたあたりでなくしたのだろう。いくつかコンビニにたずねて、警察にも行ったがだめだった。来週大宮で再交付を受けるしかない。
 『源氏物語』玉鬘読了。夕顔の関係者はそういえばどこかに落ちのびて行ったが、九州だったかと思いつつ読む。田舎ざむらいが前半は出てきて、滑稽だ。山崎方代についての散文は無事入稿。

某日
 かりんの月詠をまとめているときに、少し質にバラツキがあることに気づく。3割くらい推敲や差し替えをして、まとめる。そんなことをしているうちにいい時間になってしまう。散文の推敲もしたかったし、読書もしたかったが残念。明日は挽回したい。

某日
 仕事ははかどった。定期預金は無事開設。まずは一年で開設してみる。育ちますように。投資信託はやはり賛否両論あり、否のほうが手堅く感じる。
 斎藤茂吉歌集を読んだが、ある程度お腹いっぱいになってきた。『光のアラベスク』書評を推敲したが、徐々に形になってきた感じだ。紙に印字して赤入れしていた。明日は赤字を原稿に反映させて、全体をディスプレイ上で確かめる。微調整してほぼ完成とするか、もう少し寝かせるか。

某日
 『源氏物語』胡蝶読了。庭で唐風の舟を浮かべる様や、築山の美しさや吹奏楽の描写が豊かだ。源氏は玉鬘にアプローチしたが、かなり違和感がある。当時の感覚のある玉鬘でさえ違和感を覚えていたのだから。

某日
 和辻哲郎『地異印象記』読了。関東大震災の状況を淡々と書いている。郊外生活者で、まだ情報網が発達していない時代の和辻がどのように都内の被害のことを捉えていたかがわかる。また、地盤もそこここで違うらしく、噂話と被害状況で、どこは地盤が固いらしいなど書かれている。放火の誤報も関東大震災の汚点として語り継がれているが、なぜ信じてしまったかが本書で一番いいたいことだったのだろう。
  鼠《ねずみ》の巣《す》片づけながらいふこゑは「ああそれなのにそれなのにねえ」 斎藤茂吉『寒雲』
 面白い歌に出会った。よく高齢の歌人が、いまの若い人の歌はよくわからないとか、短歌とは和歌に通じる伝統文化だとか言うことがあるが、茂吉はもっとぶっ飛んでますよと反証できる歌だ。茂吉は後期のほうが好きかな。

某日
 北海道歌人会賞の授賞式で北海道へ行く。自分で全て手続きして飛行機に乗るのははじめてだ。この年にしてかなり緊張したがなんとか飛行機に乗ることができた。羽田空港はとにかく広く、地元から出ない私からすると空港はかなり遠い存在だ。セキュリティチェックでも緊張する。飛行機が並んでいるところが壮観だ。
 北海道は道庁やその他札幌にある公共施設がレトロで美しい。また、緑も東京より多く、空も広いような気がする。賞で盾をもらったのだが、そういえば産まれてはじめてだ。かりん賞、北海道歌人会賞をいただいて、まだ新人賞を追いかけているわけだが、賞ってよくよく考えるとどういうものだろう。労い、いいね!的なもの、プロデュース的なもの、研鑽の目標……人それぞれ違うが、定義はできないかもしれない。実際、賞に挑戦することで学ぶこともあるし、受賞者は目を引くなどあるが。
 帰りに雲丹とイクラとホタテの三色丼と、十勝ポークの焼き肉が乗った味噌ラーメンを食べる。食べすぎのような気もするがめったにいかないので、食べる。お土産を買うと大荷物でしんどい。帰りの電車のことを考えると憂鬱だ。帰りの飛行機はだいぶリラックスして搭乗できた。

某日
 お土産のロイズのビターチョコを配るついでに、試食したが美味しかった。値段はいくらだったか……機会があったら自分用に買いたい。仕事は早く切り上げられた。この季節になるとまだ明るく、そして明日は休みのためより気分がいい。短歌をやっていることが職場で知れ渡っていた。暖かく見守ってくれるような雰囲気でよかった。ちまちまやってるので。

某日
 休日。午前中は朝寝、和辻哲郎『孔子』の読書、原稿、掃除。孔子は基本的なところもわからず難しい。とりあえず通読して、論語に進みたい。駅まで歩きながら三首歌をつくる。あと三首ほど詠めば今週のノルマは達成。昼は駅前のCoCo壱番屋で手仕込とんかつカレーを食べる。パン粉は生パン粉で、立っている。ヘッドかラードどちらの脂を使っているかはまだわからず、岩田先生のとんかつ好きの域にはまだ達していない。カレーは上手くソースをダムのように囲いながら食べるときれいに食べられる。午後は免許証の再発行で大宮まで行った。『源氏物語』篝火読了。短いながら雰囲気のある帖だった。
  篝火に立ち添ふ恋の煙こそ世には絶えせぬ焔《ほのほ》なりけれ
  行方《ゆくへ》なき空に消《け》ちてよかがり火のたよりにたぐふ煙とならば
 源氏が情熱的に詠み、玉鬘が焔にかけて戸惑いの返歌をする。庭には新月の夜に篝火が燃えているのである。

某日
 仕事はまぁまぁ。明日は早く帰りたい。『源氏物語』野分読了。庭を吹き荒ぶ秋の風のなかの帖である。そんななか源氏の息子の中将は、継母の紫の上を覗きその美しさにはっとするのである。中将は典型的な二代目という感じだ。続いて折口信夫『山の霜月舞 花祭り解説』を読んでいる。花祭りとはとグーグルで調べると来訪神のようなものだ。赤い鬼が長い斧を持っている。傭兵説や、山伏、その他宗教が実施していたことが書かれておりほうとする。また、山姥は山の神の妻であり云々とあり、生贄の成れの果てなのかもしれないなど考えつつ、西洋の魔女に近いのかなと読んだ。
 社会福祉士のカリキュラムを改定するらしい。共生社会を目指しコミュニティワークを充実させるようだが、福祉需要に対応できなくなった新自由主義が、自助の推進の責任をソーシャルワークに転嫁したようにみえる。ニーズを掘り起こして対応していくケースワークでさえ、現カリキュラムでは怪しいというのに、それを削るとは……。そんなことより日本の独自性をもっと研究者は積極的にソーシャルワークに位置づけてほしい。

某日
 仕事を今日は早くあがる。明日は仕事で遅くなるからだ。太宰治『逆行』、芥川龍之介『或恋愛小説』を読了。『逆行』は短編集で太宰のもつ不条理さやナンセンスさがシビアに描かれている。『或恋愛小説』はメタフィクションな作品だが、ロマン主義でも自然主義でもなく、無頼派に通じる…と思いきや芸術至上主義的な作品。通勤のお供に『若菜集』を読んでいるが、落差がすごい。アリス紗良オットのアルバム『ナイトフォール』を聴きながら原稿をする。雨の夜に合っていると思う。

某日
 職場の関係で晩餐まで仕事。通勤のときに『若菜集』を少し読んだ程度で、文芸活動は今日はなし。まぁ今日の一日が何かの歌の素材になるかもしれない。夜はアリス紗良オット『ナイトフォール』よりベルガマスク組曲を聴く。

某日
 かりんの郡司くんが短歌研究新人賞を受賞した。おめでたいと同時に、安堵する自分がいる。私じゃ新人賞とれないからな。かりんで取ってくれた人がいてよかった。
 高野公彦歌集『無縫の海』の感想をブログにアップする。夏目漱石『文鳥』を読了。ナンニュイな短編だ。私は他の生に責任を持てないから独りで生きたいのだが、主人公もそうなのだろう。文鳥が死んでしまったときもだから言わんこっちゃないという感じだったのだと思う。

  東西南北

男ごころをたとふれば
つよくもくさをふくかぜか
もとよりかぜのみにしあれば
きのふは東けふは西

女ごころをたとふれば
かぜにふかるゝくさなれや
もとよりくさのみにしあれば
きのふは南けふは北
(島崎藤村『若菜集』より)

 この詩を読んだときに、たしかにそんなセルフイメージのときがあったと思い出した。二十代のころはたしかに一迅の風のように駆け巡ることができるような気がした。いまは隅に溜まった塵の山のごとし。

某日
 『源氏物語』行幸読了。玉鬘の運命について思う。しかし、玉鬘も結構癖のある人のように思える。源氏のようにとは言わないが、貴族の生活に憧れる。いや朝臣でもいいから。大松達治歌集『ゆりかごのうた』も読了。上手く力が抜けていて、こういう上手い歌人って少ないよなぁと思った。奥村さんや高野さんの力の抜き方なのだろうか。もう少しじっくり読んでブログに感想を書こう。

某日
 自分の人生を振り返るのとがあり、いまさらながら嫌になる。こういうときに古のひとは出家したいなど言うのだろうか。『無縫の海』をあらためて読む。

某日
 夜、『サマーウォーズ』が地上波でやっていたので観る。青春アニメなのだが、オズはグーグルをモチーフにしていて、近未来SF的な社会システムだ。それにしては端末がガラケーなのがまた面白い。いまより発展した情報社会を舞台にしつつ、根底にあるのは人のつながりだと訴える作品だ。とりわけ、古くからの友人や家族はよりいっそう深いものだということだろう。ヒロインは旧家出身なのだが、実家に帰ると大家族で、東京では核家族という設定だ。家族に対して肯定的な作品だが、現代においては家族は機能不全を起こしていることが多い。そうした人たちは『サマーウォーズ』を観てわかるのだろうか、そんなことを考えていた。ヒロインの祖母が、人生に負けないようにとたくさん食べて、一人でいちゃだめだと言うシーンがあり印象に残っている。

某日
 休日で午前中は寝ていた。休日の前日は早寝したほうがこうりつがいいかもしれない。吉見俊哉著『現代文化論』を図書館で読む。そのなかで、カイヨワのいうには、文化は遊びというテーゼがあり、遊びの類型に、演劇やコスプレなど擬態的なミミクリ(ドラクエのミミックもここからか)、スポーツやボードゲームなどの競技のアゴン、ギャンブルなど偶然性にまかせるアレア、ジェットコースターなど目眩の追求に基づくイリンクスに分類している。文学は分類しにくいな。アゴンとミミクリに近いのだが。また、鶴見俊輔の限界芸術論は短歌の文脈でも語れそうだ。ざっくりとした部分を引用してみる。

 したがって次なる問いは、 この「美的経験」と「芸術」との関係です。鶴見はここで, 芸術を、①純粋芸術、 ②大衆芸術,、③限界芸術の3類型に分けます。「純粋芸術」とは, 専門的芸術家が作り専門的享受者をもつもので,いわゆる狭義の「芸術」と重なります。
 「大衆芸術」とは、専門的芸術家や企業体が作り、大衆が享受するもので, いわゆる「マス・カルチャー」、マス・メディアによって
流通・消費されていく文化商品の諸形態が念頭に置かれています。そして「限界芸術」とは、非専門的芸術家が作り、非専門的享受者
をもつ芸術の諸形態です。限界芸術の典型例は 「替え歌」ですが、
ほかにも多くの事例を鶴見は挙げていきます。当然、「限界芸術」は日常生活のなかの美的経験=遊びの諸形態に最も近接していきます。鶴見自身、 「限界芸術の諸様式は、芸術としてのもっとも目だたぬ様式であり、芸術であるよりはむしろ他の活動様式にぞくしている」と述べています。

 短歌は全てにまたがっており、比率の違いが歌に対するスタンスの違いを生むのかもしれない。第二芸術論的な話になるが、美学や文学だけでなく、カルチャルスタディーズからも視角がある。

某日
 なんとなく歌集を意識するようになってきた。発表済み短歌を増やそうと思っているのと、何らかのフィルターを経て掲載された連作がいいということで、近藤芳美賞・文芸埼玉・文芸所沢に応募した。もう少し連作の自由投稿欄が増えるといいと常々思っている。昔は現代短歌もそういう欄があったが、今は巻頭百首と重い募集があるのみだ。一度チャレンジしたが、だめだったが、そろそろまたチャレンジしてみたい。
 そういえば現代美術は投機的価値を生んでおり、資本が大きく動いているという。お笑い芸人の作品が注目を集めるというシンデレラストーリーもあるなか、文芸は物質ではないのでその潮流に幸運なことに飲み込まれていない。が、しかし、私に1億あげるから好きなだけ短歌しなよ!という富豪は現れまいか。
 新宿末廣亭に落語を見に行った。桂文治の親子酒は名人芸だ。あとふだんの袴もみることができた。すっと古典落語がわかるようになりたいのだが本を読むしかないかなぁ。漫談のねずっちも生で観ることができ、あのなぞかけの嵐は本当に即席だということが改めて確認できた。あと浪曲がなかなか面白い。玉川大福の銭湯激戦区を観る。落語の歌人って吉井勇を想起するが再読しようかしら。全集は高いから、中公文庫の歌集あたりを。

某日
 暑い夜だ。西田幾多郎や三木清あたりの小エッセイを読み漁る。ゆりかごのうたのブログ記事はアップ済み。嬉しい歌集が二冊届いていた。お礼は全国大会のときにして、あとは読み込んでこれまたブログに記事を書こう。

某日
 かりん全国大会が終わり、夢から醒めたような平日だ。かりん全国大会の記事はブログにまた別に書く。仕事から自宅に戻ったところで寝てしまったので、途中で起きて深夜に延長線で原稿を書く。明日、明後日には仕上がるといいが…。歌はまったく詠めず。

某日
 仕事が多い。何人分やっているのだろうと思うときがある。『半七捕物帳』の猫騒動と弁天娘を読了。ひさしぶりの読書で気持ちがいい。書こうと思っていた『亀のピカソ』に関するエッセイは途中で睡魔に負けてしまう。