散歩者の日記2019年9月

某日
 身内が救急搬送されて、自分の今までの人生を思い返している。不可抗力もあるとはいえいろいろな不幸を被ってきた。いたずらに病院のラウンジにいてもしょうがないので、残り後少しの『藤村詩抄』を読んでいた。ちょうど自分に、詩が向いてくるというのだろうか、印象に残った詩が最後にあった。よりによって最後にである。

  縫ひかへせ
 (略)
縫ひかへせ縫ひかへせ
捨てよ昔の夢の垢《あか》
やめよ甲斐なき物思
濯《すゝ》げよさらば嘆かずもがな

縫ひかへせ縫ひかへせ
腐れて何の袖かある
勞《つか》れて何の道かある
濯《すゝ》げよさらば嘆かずもがな

縫ひかへせ縫ひかへせ
薄き羽袖の蝉すらも
歌うて殼を出づる世に
濯すゝげよさらば嘆かずもがな

縫ひかへせ縫ひかへせ
君がなげきは古《ふ》りたりや
とく新しき世に歸れ
濯《すゝ》げよさらば嘆かずもがな

 水に流すより、縫いかえしたり、洗い落としたりしたほうが感覚的には合っている。嫌なことは水洗トイレのように流すのではなく、ざぶざぶと苦労しなければ消えない。《縫ひかへせ》のリフレインがエールのようだ。

某日
 今日ははじめて献血をした。豪雨災害で血液が足りないらしい。豪雨災害は超急性期というより、急性期患者のほうが多いという話を研修で聞いたことがあるが、罹災をきっかけに状態が悪化し輸血を要することが多くなったなどだろうか。四百ミリリットル採取するとのことでペットボトル一本弱という量を考え緊張したが、まぁなんとか日記を書く程度には元気がでた。なお、仕事帰りに惣菜屋さんでレバーカツを買った。
 『源氏物語』早蕨読了。総角が山だったので、その帖を受けての帖といった感じ。薫は素直で、総角の君をまだ想っているのだなぁといった感じ。今月の月詠も原稿に書いた。『ラヴェンダーの翳り』の印象批評をブログに書いた。まだ下書きだが、明日推敲して問題なければアップロードしようと思う。

某日
 『源氏物語』宿り木は途中まで読んだ。この帖もなかなか展開がある。中の君に対する態度をみていると薫がいまいち好きになれない。まだ源氏のほうが徹底していてよかった気がする。尤も自分自身はと考えると薫的なところがあるのを否定できず(美しさはないが)、薫への若干の反発心をとおして思い知らされた。かりんに掲載していた小文をブログにもアップロードした。自分もアクセスしやすくなるし、かりん以外で読んでいただける方もいるかもしれないからだ。

某日
 方代忌で鎌倉にいく。午前中は鏑木清方記念美術館にいく。有名な美人画家で、美術館自体もネットで取り上げられているため、多少の混雑を覚悟していったが思いの外空いていてよかった。「一葉女史の墓」という作品が一番好きだが、その他にも多くの作品があり楽しんだ。歌集の表紙も美人画にしたいなぁと思ったりもするのだが、歌風があわないか。その後、一服ついでにミルクホールでオペラライスを食べる。ケチャップライスの周りに濃厚なクリームソースがかかっており、オムライスと違った趣がある。その後瑞泉寺に行ったのだが、瑞泉寺は相変わらず雰囲気がいい。苔のむす石段を上がるのも芙蓉や百日紅の花咲いているのもよかった。まだ3度目のはずだが何度か行っている気分になる。基調講演は水原紫苑さんで、方代とは義理の義理の義理の親戚らしい。大変な人だったということや、方代と水原さんの師匠である春日井建と歌の性質が異なることを認めつつ、方代の魅力と、逆に折り合わないところについても率直に講演しており面白かった。今回は実は当方も十分ほど話す時間をいただいており、方代と聖地巡礼というテーマで話した。メモは本ブログにも掲載しているので参照されたい。二次会はいつもの中華屋新荘園で歓談する。その後三次会は歌人メンバーで行う。

某日
 方代忌の余韻がまだ残っている。台風が来るらしく蟄居することにした。『源氏物語』宿り木読了。木下杢太郎『少年の死』読了。源氏物語は佳境で、薫の恋心が成就しそうで面白く読んでいる。全巻通読したあとに註釈本も読まないといけないなぁ。木下杢太郎はレビューを書きたい。あまり小説や戯曲のレビューがサイニーや評伝にないので、ベースを作って、詩と関連させていきたい。夜はNHKでブルックナー交響曲第3番が流れていた。荘厳ななかに、ドイツ民謡などの要素が散りばめられており、素朴さも大切にしていると指揮者の話があったが、空穂系だなぁと思って聴いていた。台風については歌をつくったが不味い出来なのでこちらに載せておく。
  暴風雨きたれば家にこもりいるその当然を都市はもたざり
  芭蕉葉が風に落ちけり芭蕉扇であおいだような風の吹きけん
  この枝はいらぬと断ちし台風の女ファクサイ足早に去る

某日
 思い返すと昨晩は多く歌をつくった。今朝はつみたてNISAの手続きを行う。給与所得以外に資産を育てて、歌人ライフ(不労所得)を構築しなければならない。そうした関係で図書館では経済学の本と、投資の過程の本を読んだ。数学的なところがやはりわからなく、今度岩波文庫で経済原論を読んでとりあえず良しとしようと思う。

某日
 雷が職場が停電した。江國梓歌集『桜の庭に猫をあつめて』を何周か読み、感想が書けそうになってきた。ざっと歌を選んだ。徐々に書いていきたい。その後すぐ寝てしまった。明日はもう少し生産的に過ごせるといいのだが……。文学活動は平日にいかに捗らせるかで中期的な量が決まってくる気がするからだ。

某日
 仕事終わりに天ぷら屋椿にいく。

某日
 明日はかりんだ。椿屋カフェで源氏物語を読み全帖読了となる。充実感がある。

某日
 かりん東京歌会の日。まずは新井薬師前の寿司屋すし政でちらしを食べる。800円とリーズナブルでサラダ、味噌汁、茶碗蒸しがついてくる。東京歌会は司会でなおかつ、かりん賞の批評会がある。郡司さんは休みなので、貝澤さんの作品について上條さんが批評した。蝿の王が下敷きにある連作だが、どう詠み込んでいくか、知らない人はどう読むかが問題になったが、うまくオマージュで貝澤作品になっていたかと思う。

某日
 京極夏彦の百鬼夜行シリーズの鬼を買った。河童と天狗があり、鬼はかりんの子だから買わなきゃなと思っており買った。河童と天狗も買う予定だが、河童は川野さんが『硝子の島』で芥川の『河童』を下敷きに連作を作っていたなと思い、天狗が気になってくる。隠遁というところと、高慢なところがいいかもしれない。手始めに室生犀星『天狗』を読んでブログにアップしてみた。柳田國男とか、『仙境異聞』などを読み、高尾山にも登らなきゃな。

某日
 献血した側の腕が痛い。どうやら穿刺時に神経に触れたのだと思う。赤十字血液センターに問い合わせたところ、消炎鎮痛剤を送ってくれるとのことだったが、あるからいいですと断った。仕事をし始めると自分はサラリーマンだということを自覚する。2日休むと隠遁者だと錯覚する。常に天狗のように高みから魂は隠遁しているようでいたい。
 地元のイオンが閉店する。閉店セールにやっと行き、二千円で革靴を二足買う。

某日
 昨日買った靴が履きにくい。安かろう悪かろうということと、スニーカーが一番という学びになった。
 仕事は今日はハードだった。すぐ明日が来てきまうような勤務時間だが、こういう日にどれだけ充実させるかが歌人の真価を問われるのかもしれない。

某日
 某日というか二日分の日記。京極夏彦の鬼、河童、天狗を読んだ。

某日
 百鬼夜行シリーズで、鬼、河童とつづき、今回は天狗についてとりあげる。鬼については「迚も恐ろしい」で各章立てが始まり、町中にいる概念としての異形を描いていた。話の流れとしてはあまりわだかまりもなく、推理小説に添加する鬼の味付けも自然になされていたように思える。馬場あき子著『鬼の研究』や折口信夫著『鬼の話』からは一歩踏み出して、鬼はナイもの存在様式だという、脱構築以降の鬼というべきか、現代の鬼とは何かという示唆もあった。河童は「下品な」云々から話がはじまる。尻子玉を抜くということや、好色だという伝説にちなんだものだろう。河童とは何かという問いから、グローバリズムで失われていくその地方地方のオリジナルな河童像、そして、メディアによる河童像の更新は口述による更新とどう違うのかなども問題意識にあがっており推理小説から少し離れたところで、民俗学やカルチュアルスタディーズ的な問題意識がみられた。芥川龍之介の『河童』も登場してまた文学好きへのサービスもみられた。
 さて、天狗であるが、舞台は高尾山だが、民俗学的モチーフや謎が渦巻く高尾山なので異界めいている。高尾山は登山道は安全そうだが一歩迷い込むと完全に山の中というところが味噌だろう。天狗というと高慢の象徴でもあり、その高慢にフォーカスされており、多様性や古い体制への批判がミステリーに散りばめられている。鬼、河童、天狗の三部作の中で一番結論がもやもやするのが天狗である。

某日
 心の花とかりんの合同歌会。非公開なので歌は挙げられないが、結社間交流とはいいものだなぁとしみじみ思った。

某日
 歌壇賞の作品を封詰めする。いけるかなぁと毎回思って候補止まりだったりするのである。

某日
 疲れのためか寝てしまう。深夜に起きて杢太郎関係の本を読む。実作においては最近より自己評価が低くなっている気がする。気長に目線を据えてと言われるが、長くやって自己満足で終えるのだろうか。結社への投稿はもちろんだが、とりあえず、ブログで散文と作品をちまちま更新するしかないか。

某日
 木下杢太郎『すかんぽ』を読む。野草を食べる趣味は明星研究会で聞いていたが、すかんぽの思い出話と野草を食べることについてのエッセイ。多くの固有名詞とまつわる話を、すかんぽから思索を広げており野原にいるような読後感がある。木下杢太郎と私の唯一の共通点として野草に対して食の視線を向けるということがある。

某日
 福島の裏磐梯に行った。高速を抜けてしばらく走ると阿武隈川が流れて、磐梯山が姿をあらわす。田園が多く収穫時期らしくゆったりと稲穂がそよいでいたり、農機具が動いていたり埼玉ではなかなか見られない景色だ。裏磐梯レイクリゾートというホテルに泊まったが、部屋の関係で猫魔離宮というグレードアップバージョンにしてもらうことができた。五色沼は少し曇っていたが、青沼やるり沼の色彩が楽しめ、みどろ沼は普通の緑色の沼だが逆に五色沼のなかではいいスパイスになっている。弁天沼や毘沙門沼は流石に天部の名を冠しているだけあり雄大だ。毘沙門沼のコバルトブルーから濃紺の色彩は渋い。赤沼はあまり赤くなかった。二日目は諸橋美術館にいく。ダリは何重にもイメージを重ねて社会や人間心理を批判していくが、どこか自分の歌に親しいものがある気がする。わからないという客が多かったような気がするが、逆にわかりやすいのがダリな気がする。ピアノ演奏もしており、坂本龍一のブリッジと、ピンク・フロイドのクレイジーダイヤモンドを演奏していた。
 自宅に帰ったら北海道歌人会より歌の依頼がきていた。五首載るようで、せっかくなので新作を載せてもらおうかと思う。ありがたい。