声が聞こえた 馬場あき子連作「春はどこまで」(「短歌研究」二〇二〇年五月号)を読む

 「短歌研究」二〇二〇年五月号の「280歌人新作作品集」に所収されている馬場あき子連作「春はどこまで」を読むと、他二七九の連作へといざなう呼び水のように読める。

  なはとびの大波小波つらなりて追はるるガゼル少女らの脚
  鮫の歯のザクリと出でし海底にパトカー並ぶ麻生警察署
  二時間ゐてもウォーター足してくれし店「風月」に孤を守りゐし夕べ

 大縄跳びで少女らが輪のなかに入りまた出ていくところを、大波小波という景色と、そこに逃げ回るガゼルを想起する幻想的な歌だ。縄跳びという景色がそうした幻を得たときに、永続性も同時に得るような感覚を覚える。肉食獣や猟師に追われる儚いガゼルが無垢な少女に重ねられている。鮫の歯の歌も麻生警察署が一気に太古にさかのぼり、海底に沈む景色はどこか近未来のSF作品のようである。しかし鮫の歯という斡旋が太古ではなく、昭和くらいの雰囲気もありどこか懐かしさも感じる。風月の歌もウォーターという言い方が懐かしい感じがする。昭和モダンといえばいいのだろうか。風月はいまはなくなってしまい想像するしかないのだが、純喫茶の華やかさを感じる。そのなかで、若かりし馬場が本を読んでいる場面である。具体的な描写はないにも拘わらず、朝の連続テレビ小説のような映像喚起力がある。どの歌も現実の景に立脚しつつ、時間や空間を超えた幻想をつくりだしている。馬場のつくりだす心象風景がいくつも存在し、それぞれ独立しつつ、ダブるところもあり連作を成している。

  雨やみて春の気配のただよへる朝なりしづかに眼《め》をひらきゆく
  仕事せずパンデミック不安の春十日相撲見てをり なんといふこと

 コロナ禍による緊急事態宣言下の連作なので外出の歌が少ないが、それゆえに冴える感覚もあるのであろう。雨やみての歌は韻律がやわらかだが鋭い感覚のある。上句は雨のやんだあとの湿気やにおいなど、視覚以外のことをいっているが、下句で<眼をひらきゆく>とつながる。このズレが眼は歌よみの眼であることを示唆している。パンデミックの歌は、テレワークの難しさのような時事的な意味や、そんな暢気でいいのかという自分自身への目線もある。結句の<なんといふこと>が面白い。会ったことがある読者なら馬場の声色で再生されるだろう。意味を言葉で尽くすよりも、ひとことでコロナ禍の閉塞感が少しユーモアで包み込まれる。
 本文で挙げたような歌を読んでいくと、修辞や思想より高次なところに本連作の面白さがあるような気がする。連作のなかに時空間が存在し、またケストナーの『人生処方詩集』のような薬効もある。他連作にも触れながらその面白さをもう少し突き詰めて読んでいきたい。
 さて、作品について本文では述べてきたが、本連作を読んで一番に思ったことはコロナ禍が終息してまた馬場先生にお会いしたいということだ。
 

このブログの人気の投稿

睦月都歌集『Dance with the invisibles』を読む

濱松哲朗歌集『翅ある人の音楽』を読む

後藤由紀恵歌集『遠く呼ぶ声』を読む