まぶたの機能 山川創作品「魚は睡眠する」(詩客)を読む

 死が文学のテーマとして最も輝いていたのは近代だろう。太宰治や萩原朔太郎、挙げていけばきりがないし、近代文士全員の名を列挙することになるかもしれない。
 山川創「魚は睡眠する」(「詩客」、http://shiika.sakura.ne.jp/triathlon/2020-05-30-20793.html、最終閲覧日二〇二〇年六月七日)にも死の気配がするが、近代文学における死とは違う趣がある。そして、よく現代における死で引き合いにされるゲーム的な死とも異なる。一言で言い表すよりも、作品を読みながら話すほうが簡単かもしれない

 最後に生き返ったのは魚に出会うためだった
 魚は直立したままこちらを覗き込んだ
 ハッピーバースデー、と口が動いたとき

 寓話的な魚が登場する。しかしうまく喋れないようである。一行目の主体は一度死に、生き返ったようだが、うまく喋れない魚は死者のメタファーなのかもしれない。

  長い間待っててくれてありがとうこれから君に杭を打ち込む

 吸血鬼の心臓に杭を打ち込むと死ぬことから、魚は吸血鬼同様不老不死のリビングデッドなのかもしれない。先に推測したとおり魚は死者のメタファーなのだ。

 できるだけ大きな音で地面を蹴りつけながら転んだ
 あらかじめ内蔵は凍らせてあったから
 無事に起き上がることができた

 ここでまた死のイメージが出てくる。今度は主体が死に曝される。内臓が凍っていなかったら起き上がれなかったのかもしれない。つまり死である。主体は死に得る存在ながら、今回は死から逃れることができた。〈できるだけ大きな音で地面を蹴りつけながら転んだ〉は積極的な行動であり、自死が未遂に終ったとも読める。タナトスとエロスのせめぎあいが示唆されている。

  ものすごい数の魚が降ってきてここだけインターネットみたいだ

 ここで一気に視点がマクロになる。前〜中盤まで書かれていた死についての詩想は、竜巻で巻き上げられたあとの魚の雨の記事という遠い存在になる。そして、その遠い存在が周りに多数あるということになる。魚はまぶたを持たないが、わたしたちも何かの目を開いたら、ものすごい数の魚のような死が見えてしまうかもしれない。

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