少し高いところから街を眺めたい 「別冊 むさしいか」第一号を読む

 手の内におさまるかわいらしい冊子が届いた。そこには江古田を通過点とする若者の作品が詰まっているのだが、森見登美彦的な香りを感じるのは私の中の青春も回顧しつつ読んでしまうからかもしれない。そんな夢をみせてくれた「別冊 むさしいか」第一号の短歌を鑑賞していこうと思う。

  改札で慌てる様が想い浮かぶ切符を栞にしたのを忘れて 木村渉吾
  私へと君が用意した寝室みちばたの前方後円墳 透
  水際を走り続けて捕まった白波さらう土踏まずの砂 夏目四季

 木村作品は、読書好きなら割りと何でも栞にしてしまう習性を歌にしている。レシートやストローの包装紙なら問題はないが、切符は改札口で慌ててしまう。読書に没頭しているわれの人物像を察することができ、また思いではなく〈想い〉という動詞の採用から他者の存在も予感させることで小説の一場面のような歌である。透作品は句跨がりが上句下句にあり大胆な構成で、さらに〈みちばたの前方後円墳〉が寝室だという突飛な比喩が面白い。韻律においては定型で考えずにさっと読み下すといいのだろう。そして寝室やみちばたという卑近な言葉の斡旋が比喩の大胆さを緩和している。それにしても古墳を経由した両者の関係にあるものは何だろう。死や死を越えた古代的死生観であるかもしれない。永続的な青春というと「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」を想起する。無理やりな関連付けだと筆者も思いながらも、透作品とうる星やつらがつながってしまう磁場が青春なのかもしれないと思った。夏目作品は上句はよく映画やテレビCMでみる光景だ。上句は波ではなく、君に捕まったという読みもできる。下句が文学的な表現で、白波という斡旋や、土踏まずの砂という細かい描写や感覚が活きている。上句でよくみる風景を提示しつつ、結句で細かな感覚に迫るとよくみる風景のなかに臨場感がでてくる、そんな意図を感じる。

  いつのまにみどりに透けててらてらと光をためるはつなつの街 中武萌
  歌舞伎座の「辧松」弁当幕を閉じお魚さんの醤油入れが泣く 小橋龍人
  白壁に脚をひろげるコガネムシ来る日も勇気のこと考える 原 達吉

 中武作品は街全体を見渡したときの歌だ。街は当然さまざまな色があるが初夏の陽気が透明感のある緑色を与えているという。てらてらのオノマトペが面白く、照る・輝るという意味もあるだろうし、琉球語でいう太陽であるテダや、イタリア語で地球であるテラあたりも含まれている気がする。全体としては新海誠の背景画のような清々しい街並みを読者に思い描かせる。小橋作品はコロナ禍を歌舞伎座の弁当屋さんから切り込む視点がユニークだ。歴史のある辧松閉店は歌舞伎を愛する多くのひとが悲しんだに違いない。コロナ禍というある意味センセーショナルな幕の閉じかたである。そんな思いをさらに弁当のなかにある魚の形をした醤油入れに託しているのだが、辧松のなかには何百もの魚の形をした醤油入れがあり、泣きながら一斉にゴミ箱へ注がれる様は見ているほうも悲しくなる。人間が辧松閉店に悲しんでいる裏で、魚型醤油入れの悲劇があると読むという童話的な歌ともいえそうだ。原作品は白壁にとまるコガネムシが象徴的な場面である。コガネムシは色彩からして美や希望などポジティブなもので、それが壁にしがみついている様は貴種流離譚を思わせる。それをみてわれは勇気のことを考えるので、上句の読みが概ね筆者の読みでよければ素直な抒情である。また、これは読みすぎかもしれないが窪田空穂の貴族の心を持ちて、平民の道を行ふものなりを踏まえているかもしれない。エッセイや自由律俳句も収録されているがどれも面白い。また組版がサイズの制約のなかで効果的になされており、折り本をつくるときの参考にするのもよさそうだ。

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