短歌風土記名古屋篇2020 「短歌ホリック」第7号を読む

 文フリで購入した同人誌のひとつに「短歌ホリック」がある。所属結社「かりん」の先輩である辻聡之さんが企画編集している同人誌だ。「Tri」もあるし「かりん」の歌人は同人誌に携わっている割合が高い気がする。


  夾竹桃がまたしても咲く標識板のあをの世界のふたりを覆ふ 荻原裕幸


 連作の次のページに同人同士の相互評がある。そこでは喪失感がキーワードになっている。この歌も標識のなかのピクトグラムが寂しげだが、〈あをの世界〉は完結しているようでもある。夾竹桃は〈ふたり〉を外界からさらに隔てて守っているのか、孤独にしているのか。〈またしても咲く〉ということでわれは〈ふたり〉の抒情を毎年共有しているのである。この歌に関してはピクトグラム同士の「二人いれば孤独じゃないよ」的なボーイミーツガールの物語があるという読みもできる。


  じゃんけんで勝てば無料になるレモン酎ハイ騒ぐよギャンブラーの血が 小坂井大輔


 平成、令和と年号が変わるなかで小坂井の連作は昭和レトロな感じがする。荻原が連作評で「平和園をアレンジした下町的空間。自身をデフォルメした博打好きの料理人。」と述べているがその通りだと思う。じゃんけんで勝つことも、レモン酎ハイなのも昭和感があるし、東京で考えるなら新宿や池袋では想像できない光景である。もっとも城東方面の下町ならなんとなくありそうだ。情景を思い浮かべているうちに小坂井の描いている世界はもうないのかもしれないとも思えてくる。アウトローなわれは痛快ではあるが、ホームシアターで「ALWAYS三丁目の夕日」を見ているノスタルジックな気分になってくる。アウトローなわれと、ノスタルジックな読者のテンションのギャップもこの連作の面白さである。


  まだ腋毛あると思えばだいじょうぶ元気は自分で間に合わせたり 辻聡之


 連作後の評では〈陰毛を剃り終えしのちすんすんと水羊羹のごどきしずけさ〉が引かれているが、腋毛も陰毛と同じ男性性、ファルスのモチーフなのだろう。廣野翔一が性は自分の拠りどころであると述べているが、辻は性のモチーフを剃り、全裸になることで体性感覚や社会的性など違和を表現しているのかもしれない。ロダンを想起しやすいが、青銅の青年像は筋肉が引き締まっており、男根も隠すことなく表現されているものが多い印象がある。辻はそこから一歩進んで、違和を感じつつも男性性やファルスの荒々しさのある力を肯い、腋毛に対して〈だいじょうぶ〉と確信するのである。


  あれ芥子の花、でいいよね もう一度スマートフォンに花を探した 廣野翔一


 芥子の花だと大変なことであるから、雛罌粟だというツッコミ待ちでもある。ツッコミ待ちのような歌は目にすることが多いが、芥子や副音声としての雛罌粟を重層的に想起されるので華やかさもある。レトリックというよりギミックといえばいいのか、精巧な機械仕掛けのような歌である。また、ZOOMでかりんの特集を読む会で当方の作品を廣野が新たな自然詠と評していたが、引用歌も逆説的な自然詠であるといえる。


  左目だけが涙する朝 不具合はさておき食パンきれいに焼ける 岩田あを


 感傷的な上句を不具合という工業製品が故障するようなドライな表現で回収する。もしかするとアレルギー反応かもしれないが、感傷や若干の生理現象はさておき、ルーチンとしての食パンを焼くという行動が上手くいったときに満足するのだ。老いの歌があれば若さの歌があってもいい。下句は青春詠や相聞とはまた違う若さの歌ともいえる。生業と文学の二足のわらじのなかで何かを割り切って生きる現代の若者像を感じる歌である。読後感がいい歌集はこうした歌が多く収められている気がする。

 ゲスト作品も面白かった。「それゆけ!なごや歌探訪〈中区編〉」も筆者からすると中区…てどこだろうとなるが、歌と評をみると廣野が「繁華街の近くにいながら辺境の香りもするのが中区なのだ。」と述べており、筆者の地元の所沢みたいなものだなと謎の納得感を得るなどした。本特集は短歌風土記的な試みで名古屋は短歌の街という感じがしてくる。コロナ禍が明けたら今度こそ名古屋に行こう。