窪田空穂著『万葉集選』(大正四・二/日月社)を読む

  本書は万葉集のなかで空穂が「作者の心境と、その捉へた境と如何に融合してゐるかという点を主とした」という基準で歌を抄出し解釈と批評を加えたものである。読んでいくと有名な歌だったり、読み飛ばしてしまいそうだが改めていわれるといい歌だと思わせられる歌と出会うことができる。膨大な万葉集の歌を読んでいくよりも、いいとこどりをした気分になる。また万葉集は多くの歌人の歌が収められているが、本書では人麻呂がとりわけ多くとられている。したがって本文では人麻呂の歌を中心に追い空穂の鑑賞を味わいたい。


  東《ひむがし》の野《ぬ》にかきろひ立《た》つ見《み》えてかへり見《み》すれば月《つき》かたぶきぬ 柿本人麻呂

  石見《いはみ》のや高角山《たかつぬやま》の木《こ》の間《ま》より我《わ》が振《ふ》る袖《そで》を妹《いも》見《み》つらんか 同


 東の方が明るくなったので西の方をかえりみると月が傾いていたという歌だ。空穂はこの歌について、何人にも捉えられそうで捉えられない。何物にも感応して力強く表すのをみると(人麻呂は)いかに豊かな気分で生きていたかという評をしている。人麻呂が偉大な歌人であることに疑問はないが、人麻呂大絶賛の空穂である。また、この歌から人麻呂の生き方にも迫っているところが面白い。次の歌はわかりやすい歌で、当時も手を振りあってお別れをしたということがわかる。豊かな感動が大波の寄せるように自在に整って表れており、絵にもなっているという絶妙な評である。行き倒れも多い当時の別れはもう会えないかもしれない別れでもあり、袖を振る仕草も今以上の胸に迫るものがある。その惜別を空穂のヒューマンな感性は捉えたのだ。また、物語性もありストーリーテラーとしての空穂の感性と通じるところがある。


   鳴《な》る神《かみ》の暫《しば》し動《とよ》みてさし曇《くも》り雨《あめ》も降《ふ》れやも君《きみ》を留《とど》めん 同


 女性の立場になりかわって詠んだ歌としている。男女間の細かい駆け引きや感情の機微がみえる歌だが、天気が悪くなりそうだからもう少し一緒にいようというのは今読むと少し鼻につく。空穂は「細かい心持ちの、心持のまゝに表現されてゐるところに非凡を感じる。」と評しており好意的に捉えている。


  春山《はるやま》の霧《きり》に惑《まど》へる鶯《うぐひす》もわれにまさりてもの思《おも》はめや 同


 霧が深く立ち込める春の山にわれにもまして鶯は物を思っているだろうかという歌。物を思っているだけではなく鶯もわれも濃霧、濃霧のような世の中に惑わされているのである。景と心理が融合しており絵画的に表現されているため、全面に苦悩は打ち出されていないが、濃霧の山の不安定さで詩的に心情が表現されている。一首のなかに物語性を生み、動植物に心情を託す詠いぶりは空穂の作品にもみられ、万葉集を通じて人麻呂と空穂の時空を超えた交歓が垣間見えるようである。


  いにしへに妹《いも》と我《わ》が見《み》しぬば玉《たま》の黒牛潟《くろうしがた》を見《み》ればさぶしも 同

  百敷《ももしき》の大宮《おおみや》びとは暇《いとま》あれや梅《うめ》をかざしてここに集《つど》へる よみ人知らず


 また本書を読んでいくと読者自身も気になる歌に出会う。妹とみた黒牛潟だが一人だとさみしいという歌だが、黒牛潟という地名が気になる。その暗い名前から妹との思い出も明るいだけではないように思う。全体的な不穏な感じが妙に印象に残った。次の歌は平民から官人をみた歌である。空穂は「怪しんで見る平民も、見られつゝ遊んでゐる宮人の様も、批評的に見てゐる心を消して(略)単純に歌つてあつて複雑した味ひを持つてゐる」と評しており、当時の身分感覚では身分の格差や宮人が暢気に遊んでいることに対して批判的な感情がわかないのか、和歌で表現する際にそぎ落としたのか読みがわかれる。

 四千以上の歌と二十巻に分かれる万葉集に挑戦するのは、筆者のように文学を専攻しなかったひとは大変かもしれない。いまは評釈本やアンソロジーなどが充実していて徐々に親しめる環境が整っているが、その中のひとつに本書を加えてもいいかもしれない。空穂の人に根ざした鑑賞がわかりやすく、本文前半に引用した抄出の基準も、結果として初学者には親しみやすい歌が抄出されることになった。