伊藤比呂美著『切腹考』を読む

  分倍河原駅前の商業ビルのなかにマルジナリア書店がある。人文学系の専門書が充実しているという独立系書店で、短歌もカフェスペースもある。広くはないが趣味の良い本が揃っており、その分「おっ」と思う本に出会う確率が高くなる。「おっ」で購入したのが伊藤比呂美署『切腹考』である。森鴎外を中心としたエッセイ集なのだが、最初に知ったのは結社誌「かりん」の書評欄「かりんの本棚」だった。その頃はまだ鴎外と伊藤比呂美ってすごい組み合わせだなと思うくらいであった。最近になって、そろそろ鴎外も勉強せねばと思い、概論書や作品を再読するなどしていた矢先に本書に出会ったのだ。まさしく「おっ」となるのである。

 標題になった「切腹考」は切腹愛好趣味のなかで、とりわけ性癖としての切腹について書かれている。ある人物が切腹をするというのでそのルポである。性癖としての切腹とはなんぞやと思い読むと、例えば刃物は男性器で血まみれの傷口が女性器であるだとか、読本や歌舞伎、文学で若い女性が刺殺されるところにエロスを見出している。前者は精神分析学的で少し眉に唾をつけてしまうが、後者はなるほどとなる。性的高揚と臨死の感覚が文学的に(?)近いのである。なお、切腹した人物は医師で比較的侵襲の少ないところに刃物を突き立てたようだ。ギリギリ(アウト)の嗜好で勉強になった。

 「切腹考」というパンチのあるエッセイから、徐々に鴎外と伊藤の世界に入っていく。伊藤はアメリカに住んでいる。鴎外の留学先はドイツで、住居は東京と左遷先の小倉である。伊藤は熊本に住んでいたこともあり、そこで地理的なつながりはあるが、長い期間文学的リスペクトがあったようだ。ときに、マーマイトというトーストに塗る独特な発酵臭のある食品から鴎外を想起する。イギリス人以外は好きではないらしい。夏目漱石はタールのようだと表現したようだが、鴎外はそれに似た?マツギウユルツエエという醤油に似たものを食べたらしい。筆者は海外に行ったことはないが、鴎外や漱石が触れた西洋文化の名残は残っているようだ。

 本書では『阿部一族』に多く紙幅が割かれている。ここで切腹と鴎外がつながる。山本博文『殉死の構造』を引用しながら殉死とは主君との間に一体感があると感じて追腹を切ったものとしてある。江戸時代が男色がいまより盛んだったようだが、男色はヘテロのアイデンティティと分けて考えていたようだ。生きるも死ぬのもアイデンティティと伊藤は述べているが、『阿部一族』の運命論的な結末は鴎外の諦念というライトモチーフでもあるのだろうなと思いつつ読んだ。

 鴎外について面白く、奔放に書いている。鴎外が本書を読んだら笑いながら一気に読んでしまうに違いない。伊藤は自分でいっているが、鴎外が好きなタイプの女性なのだ。いわば紫式部より清少納言的という感じか。鴎外について知らなくても伊藤の筆力で面白く読めてしまう。さて、拡大解釈すると鴎外も国家と殉死したのかもしれない。鴎外の晩年の虚ろな気分は『空車』に書かれてあり、大きな荷物が空の荷車に自分の人生を重ねている。積み荷はないのだが大きいので周りの人たちは道を開けるのだという。文学史の要所要所に鴎外の影が認められる。筆者が印象的なのは大逆事件に立ち向かった弁護士平出修に社会主義を教えたことだが、その他にも軍部や医学界、山縣有朋や西園寺公望などの政治の中枢と、リベラルな文学者たちとの付き合いは二律背反的な交友である。普通では考えられない文学的な、社会的な役割を果たしていたのだ。国と文学のために懐剣を忍ばせて身をささげていたのだろう。最後は「石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と願いながら。