抑制された文体のなかにわれの息づかいや時代感を感じる歌集だ。風景と抒情が無理なく同居しているのは、さながら思索しながら散歩するときのモノローグのようである。
鯉がいて、立ち止まったらそれらしい速さで鯉は流れて行った
哲学の道が歌集に登場するが、京都はかつての生活用水である小川が多い印象がある。鯉が追走しているが、ついてきているのではなく泳いでいるか流されているのである。われが見いだした交互作用などはなく鯉は独立していたのだ。この無意味さが面白い。
メルカリで買おうかどうか比較的きれいな状態のつくも神
六月は蛇を隠しておくところ 雨のやまない校庭に行く
続いて妖怪づくめの連作から引用した。どれも現代版百鬼夜行のようでシュールである。つくも神は長く利用した道具が化けるので、売りに出されるとリセットされそうだが、そうでもないのだろうか。メルカリというのがつくも神と対照的だが、探すと案外ありそうなメルカリでもある。次の歌のような読者を唸らせるような詩的な歌も多く収められている。蛇のような毒のあるものを湿り気のある雨の世界に隠して、校庭という無垢な空間に行く。しかし、その校庭も雨というメランコリーがあるのだ。そんな繊細な世界では蛇は隠さないと目立ちすぎる。
弾丸をつつんだこともあるというサランラップのかすかな記憶
死を暗示させる歌も多く収められている。近代的な実存的な死ではなく、激しい慟哭でもない。生の延長あるいは、生を平行しているような静かで身近な死である。死が報道によって近く、平和によって遠くなってしまった微妙な距離感をこの歌から読み取れる。
言葉は平易でも読むと示唆的な歌が多く収められている。特に時代感は本歌集を読んで主題のようにも感じるが、どこまでその主題を作者と読者が共有できるかはわからない。詞書が多用されているのは対策のひとつだが、一首を阻むものでもある。