岩田正著『窪田空穂論』を読む

  近代文学の文士は教科書にのみ存在するような印象がある。文学はそういうもので作者はいつか作品になり、残るということは文学的成功でもあるのだ。しかし、近代文学の文士といっても長寿だと親世代と生きる時代が被っているなど、そこまで時代が遡るものでもないのも事実だ。本書は岩田が空穂を肌で感じたうえでの論考が収録されており、空穂・岩田の文学観を垣間見ることができる。筆者でいうと師岩田を通じて空穂と通うことができる気がしてくる一冊である。また、そうでなくても近代短歌と現代短歌の橋渡しをする一冊であり、現代は近代を超克できているかなど、近代と現代を比較するのもいいかもしれない。なお、〈空穂論書きて空穂になんだいなこれ俺かよと言はれし夜あり 岩田正『郷心譜』〉という歌があるが、好きな人は本書にこの歌に出てくる論の要素があると思うと興味がことさら湧いてくるだろう。

 本書は死・孤座・ユーモア・老いなどをテーマにしており、歌集『まひる野』の論考もあるが、テーマ的には円熟期というべき境地に多く頁が割かれている。空穂は老いの艶の文脈で語られることが多いが、本書で左記のテーマを挙げた意図が裏表紙に「農の心を文学の身上とし、愛妻・藤野の死後「故郷回帰」がさらに強まる(中略)“生活に根ざした浪漫性”とも言うべき文学観を指摘する屈指の名著」と書かれており的確に評している。空穂は都市生活を送りながら農の心をもつ歌人であった。


  眼瞼《まぶた》おもく閉づれば見え来見知らざる多くの翁椅子《いす》に倚《よ》る僧 『丘陵地』


 空穂は挽歌の多い歌人だが、岩田は空穂自身の挽歌として死の歌を論じている。空穂にとって死は客観的に必然で〈翁〉や〈僧〉は空穂の内部の死のイメージである。迢空は主体的に死が必然で、死を自らの裡ふかくに秘めもち、死の意識をもって周辺を眺めた。引用歌が岩田の解釈により迢空と距離を至近にまで縮めるとしている。本書ではそれ以上の説明はないが、空穂と迢空の比較は面白い。二人とも国文学と民俗学という共通の基盤を別のアプローチをもってして深めているからである。散文では差が際立つが、歌の深部では共通項があるのだ。生と死への持続的で執拗な凝視があったことを述べ章を締めくくっているが、母、娘、妻……と空穂の近しい人物の死や、自らも病気がちで長くは生きられないといわれてきた空穂だが、生と死を凝視せざるを得ない運命が空穂を形づくったということも可能かもしれない。「微視的自然観から巨視的自然観へ」の章では短歌だけではなく『日本アルプスへ』・『日本アルプス縦走記』についても触れられており、克明な事実記録と自然描写だけではなく、通底するものがなしいトーンがあり、それは人間を語っているからであるとしている。数人の男が山あり谷ありを歩き、ときに遅れ、ときに振り返り山道を進むのはまさに人生めいている。岩田のいうように人物描写を省くと空穂の紀行文は急に味気ないものになるに違いない。

 表紙をめくると空穂一家、一門のモノクロの写真が挿入されている。一枚目は正面に青年期の岩田が写っている。空穂の文学的果実に人間探究的な歌風、国文学などが挙げられることが多いが、文学的態度も無視できない。岩田は本書を通じてその態度受け継ぎつつ、明らかにしようとしたように思える。