窪田空穂著『炉辺』を読む

 


 空穂は短歌だけではなく短編を中心に小説を発表しており、短編集である『炉辺』もその一つである。「峠越」の舞台は善光寺駅と松本駅のさかいの冠着駅だ。主人公の学生が電車が止まってしまい雨の中最寄り駅まで他の乗客と共に歩いていくのだが、途中足弱(?)の女性と連れ立つことになる。女性はぬかるみに足を取られたり、カバンを落としてしまったり困難に見舞われ、頼りがいのあり誠実な青年がところどころ手助けをしながら歩を進める。雨の山道は困難な連続だが二人で歩いていくことで、どこかお互いの運命が交錯するような感じがする。吊り橋効果といってしまえばそれっきりだが、それ以上に人生的なものがある。しかし、物語終盤になって山道で形成された人間関係は一気に清算してしまう。短歌でいうと〈平安のをとこをんなの詠める歌をんなはやさしきものにあらず 窪田空穂『老槻の下』〉といった感じである。詳しくは本書を読み痛快なところを味わって欲しいが、どこか泥臭い人生観を一蹴する快活さを描いているところが、読者の空穂の印象をも刷新すると思われる。

 対照的なのは「母」で病床に臥せる母の様子を写実的に描いた小品である。空穂が早くに亡くした母の存在感も彷彿とさせ、母の記憶を作品として残したと読んでもよさそうである。作中は限られた空間で展開し、寝床と庭のみである。泉水や躑躅垣など古き良き日本式の庭と、そこで過ごす家族が描かれる。作中主体である息子と、母の生家の子である甥が特に母に思い入れがある人物として描かれるが、病態が急変したときに母と父のみの世界になる場面がある。その一場面に母と父への尊敬の念が読み取れるのである。ひとは生まれて最初に社会に関与するのは学校や会社ではなく家庭である。家庭のなかにアイデンティティを確立し、他者である家族の立場を理解し、愛着をもつなどする。空穂の人間好きな部分は「母」に垣間見える家族への愛が根底にあるのではないか。そしてその愛は時に、別れなどの厳しさがあることも青年期の母との死別で思い知らされたのだ。

 空穂の小説は地味だが、心に染み入るような含蓄がある。歌も随筆もどうようのことがあることから、併せて読むと空穂のヒューマニズムをより感じることができると思う。それはユーモアや厳しさも包括しており、ところどころ生の断片としての性質がある。