坂井修一著『歌人入門④ テエベスの百門の抒情 森鷗外の百首』を読む

  森鴎外と聞いて最初に思い浮かべる作品は『舞姫』のひとが多いと思う。鴎外は一般的に小説家であるという印象のほうが強いと思われる。しかし、文業を追うと訳詩集『於母影』、詩歌集『うた日記』『沙羅の木』を上梓している。それ以外にも「スバル」や「心の花」にも寄稿しており、観潮楼歌会も主催して「明星」と「アララギ」の仲立ちをするなどなど実に幅広く詩歌に携わっている。少し踏み込むとなるほど詩歌のひとだという印象が強くなる。その他に翻訳、小説、評論、美学、医学、軍事などなどの業績が加わってくる。詩歌関係の活動だけでも旺盛で、さすが木下杢太郎にテエベスの百門といわしめただけあるのである。本書は坂井修一がテエベスの百門である鴎外の短歌および詩・訳詩を百首抄出し、つど解説、鑑賞されている。今日からみると鴎外のユマニテ、立場などは一般的でなくなってきており、鑑賞が難しくなっているように思うのだが、そこを坂井はわかりやすく橋渡ししており、歌の背景や歌意だけではなく鴎外の遊びや苦悩など息づかいまで感じさせる一冊となっている。


  わが足はかくこそ立てれ重力《ぢうりよく》のあらむかぎりを私《わたくし》しつつ


 坂井は「鷗外短歌の魅力は、世界と自分をユーモアたっぷりに総括してみせるところにある。」、「知識人が世界を楽しむやりかたを示した歌だ。」と評し、西洋体験によるところもあると評している。森家由来の鴎外の自意識というものがあるが、西洋体験によりさらに自我が屹立したのであろう。そして、軍医と文人の二足の草鞋を履くうえでどこでも心を遊ばせる技が必要なのだ。


  もろ神のゑらぎ遊ぶに釣り込まれ白き齒見せつNazarethの子も


 天岩戸の場面でキリストがアメノウズメの踊りをみるという奇想であると坂井は解説している。鴎外がドイツで師事したロベルト・コッホが来日したことから、彼がもてなされ笑顔になったところを想起したのかもしれないと坂井は評している。評伝やウィキペディアを読むとコッホのことは書かれているが、引用歌からコッホに及ぶのは本書のような案内が必要だ。一見ペダンティックで難解に読める歌も坂井の鑑賞があるとすっと理解でき、Nazarethの子の笑みが想起できる。


  寫眞とる。一つ目小僧こはしちふ。鳩など出だす。いよよこはしちふ。


 子どもの怖がる仕草をみて創作のことを考えていたのかもしれないという評もそうなのだが、坂井の歌意を読むとパッパとしての鴎外が浮かんでくる。当時の自然科学、人文科学、社会科学の最先端に触れていた鴎外は、子どもたちの驚きが新鮮なのかもしれない。そして、社会的肩書や文筆から解かれるひと時をいとおしんでいる様も想像できる。〈ちふ〉というのが何とも味がある。

 筆者は鴎外についてその経歴と写真で厳格な人物な印象があった。またドイツみやげ三部作でも軍医としての鴎外が前面に出ており、その印象は揺らがない。一方で、『青年』や『雁』、『ヰタ・セクスアリス』のあたりや、『阿部一族』意向の歴史文学から鴎外の文人気質がわかりやすくなるが、主人公であったり執筆動機に鴎外の声が託されており、知的処理がはいる。やはり肉声を聞くには詩歌がよいと思う。詩歌で心を遊ばせているところをみると文人らしさというか人間くさいところも垣間見え、親しみがでてくるのである。観潮楼の前に薮下通りという細い路がある。団子坂から路地に外れるようにいくのだが、小さな公園があり、鴎外記念館の雰囲気と合っている。薮下通りはかつて多くの文人が鴎外を訪ねて通ったと案内板に書かれている。作品とその鑑賞を通じてその文人になった気分になる一冊だ。