G.C.スピヴァク著『ある学問の死 惑星思考の比較文学へ』を読む

 本書によると比較文学と地域研究似て非なる学問でルーツも全く違う。地域研究は冷戦後に政治権力と相まって発展した現状診断系の領域である。一方で比較文学はヨーロッパの全体主義から退避した知識人が発展させたカルチュラルスタディーズであり、双方両極端の価値がある。両者の統合が提言されるなかで、社会学的な数量的説得力を持つ地域研究と、比較文学はどのように相互補完するのかという問題がある。スピヴァクはジョージ・オーウェル『動物農場』を引用して示唆している。檻の中に飼われている動物がいる牧場で、牧場主が消えた。檻の中を自由に行き来できるようになり、珍奇な交配のすえ新種の動物が生まれ、相も変らず牧場での動物たちの生活は継続される。しかし、そのには牧場主がはいない。つまり、「わたしたちの決定不可能な意味は、他者の眼の代理を務める還元不可能な形象のうちに宿っている」というのである。ネガティブケイパビリティともいえる比較文学的な意義は本書前半で暗喩的に語られる。この含みは人間第一主義の終焉ののち人間が占めていた位置に代入される概念である“集合体”のためにある。

 「集合体」の章では主にヴァージニア・ウルフやその他文学作品を印象しながら主に女性のことが語られる。フロイトも例外なく女性(女性器)を異質なものとして語っていた。しかし、女性は極めて人間的な象徴で、異化が土着的なもの(既成概念など)を除去するものだといっている。表面的にはクィア的な言説なのだが、脱構築に関する章立てである。筆者は今やパターナリズムや征服、思想を男性的ということに対しても違和感があるが、男性的といわれるものは社会構造的なものであり、スピヴァクは女性的な象徴を語ることで手っ取り早く男性性を否定したのである。

 ここまでかいつまむと概ねサブタイトルの惑星思考とはリベラルで本質的なグローバリゼーション(グローカル?)のことをいうんだなと察しがつくだろう。本書を読むと、辺境の定型詩である短歌がいかに惑星的な政治的意図に弱く、宇宙からの神の吐息で吹き飛んでしまいそうな詩形であるという気がする。それは短歌だけではなく消滅寸前のあるいはした言語による叙事詩も例外ではない。そして、いまや主要言語の叙事詩も超訳や無理解にさらされており危うい。短歌滅亡論は繰り返しなされているが、惑星的短歌滅亡論が唱えられる日はそう遠くないのではないかと危惧しつつ、本書がエンパワメントしている周辺への明かりも信じたいものである。