「かりん」(二〇二一・十一)を読む

 結社誌を読んでいると、歌会や「前月号鑑賞」に取り上げられるだろうか、少し語りたいという歌に出会う。歌会は声に出した瞬間に消えてしまうし、「前月号鑑賞」は担当箇所しか書けない。だから体力的に、時間的に余裕があり、ブログを書けるときはブログで一首鑑賞したくなる。

  手帳よりわが日日拾い出されつつ年表となりゆくを見てゐる 馬場あき子

 馬場あき子全歌集の年表作成の風景だろう。見てゐるというのがどこかここにあらずという感覚がある。手帳には私的な出来事も書かれているが、テキパキと選別されて年表になっていく。自分の生の体験が年表という歴史になってしまう非現実感がこのここにあらずの感覚に出ている。とはいえこの感覚を真に共感できる人が世に何人いるかと思わされる。

  頸椎を傷めて右手が使へぬに右手に思ひがどつと流るる 川井盛次

 頸髄症で麻痺が残ってしまった。これは不幸として語られることが普通だ。しかし、この歌は右手のいままでしてきた仕事に思いを馳せる。物を書いたり、人を撫でたり手は自分自身の多くの部分を担っている。麻痺した右手のこれまでの仕事を肯定し、エンパワメントしているのである。思いがどっと流れるという描写も面白い。血液、もしくはもっと大きな滝のようなイメージで詠っている。

  角打《つのうち》や鴨狩津向《かもがりつむぎ》トンネルに村名つらねる中部横断道   古田香里

 村が存続しているかわからないが、トンネル建設によって消えてしまったと仮定すると、トンネルは村の墓標のようである。あるいはトンネルと関係ないのであっても碑文のようである。名が残るのは残らないよりはまだ救いがある。しかし、消えてしまわずに存在し続けるのもかなしいことである。

  それはもう、ばっさり切って床の髪 このあと寿司と映画を奢る 郡司和斗

 映画の一場面のようなアンニュイな景がある。床屋にいかずセルフカットで節約しているが、床に髪の山ができるのも生きているって感じが希薄ながらするのである。ばっさりという潔さがありながらも、初句のはいりが勢いを抑制している。で、そんなミニマルな生活であるが、寿司と映画を奢らなきゃいけない。友人にはあまり奢らないだろうから、後輩か、恋人か、あえて奢ることを提示することで、奢りたいわけでもなく、嫌々でもなく、奢ることになるという虚無感を感じさせられる。

  無常から逃ぐることなくさうめんをただ平らかに啜りてをりぬ 古河惺

 無常を肯う。概念的で東洋思想めいたはいりだが、そんな思索的な気分の中でわれは素麺を啜るのだ。連作中の他の歌をみるとそんな気分になる理由もわかるのだが、食べなければ生きていけない。まだ、白くて細くて切れやすい素麺なら無心に食べられるのである。