G・C・スピヴァク著『スピヴァク、日本で語る』を読む

  本書はポストコロニアル論の牽引者であるガヤトリ・スピヴァクの講演録である。あとがきによるとスピヴァクはガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァク財団法人国際文化会館の招聘を受けて数日来日し講演を行ったようだ。スピヴァクは比較文学研究をする際にその国の言語も学ぶほどの徹底ぶりの学者である。したがって日本で語ると題名にあるが、日本で語り、日本を語るといっても過言ではない内容であった。ポストコロニアル批評はどうしても西洋視点のものが多く、アジアは被支配国もしくは、オリエンタリズム的な神秘(未開?)的な地域として一括りにされてきた。スピヴァクがアジア、東アジア、日本と焦点を絞り込んで論じた本書はそうした意味でも貴重なものである。余談だが元々アジアは古代ローマの一地域の名称で、中心以外の地域であるアジアが徐々に拡大して極東である日本まで至ったということを本書で初めて知った。日本はもしかするとローマなのかもしれない。

 本書は学問的アクティヴィズム、比較文学再考、日本での研究者とのセッション、他のアジアという章立てで構成されている。学問的アクティヴィズムはまさしくスピヴァクの活動の紹介といってもいいような内容である。きっと来日最初に講演したものだろう。『ある学問の死 惑星思考の比較文学へ』では地域研究は帝国主義的な意図から発展した分野で、比較文化学やカルチュラルスタディーズは帝国から脱出した知識人が興したものということを述べていた。本章ではまずアントニオ・グラムシの百科全書主義的な伝統的知識人と、現代的生産様式に生み出される永遠の説得者である有機的知識人の分類を挙げている。この二つが混在しているものがスピヴァクのいう教育であり、グローバリゼーションへのアンチテーゼであると述べている。グローバリゼーションが良いとされていたのは近代のことで、いまはグローカルなどとキャッチーにいわれるが、グローバリゼーションの錦の御旗を掲げて文化帝国主義と対峙してきたスピヴァクからするとグローカルという言葉にも違和感を感じるだろう。西洋の啓蒙主義的な、文化を階層化し下部構造に接近していくのがグローバリゼーションである。その対極に人文学における学問的アクティベーションがあるのである。比較文学再考においては沖縄は先述した地域研究の正当性への疑問を示唆すると述べている。スピヴァクはサバルタン的集合性やトポスをキーワードに論じており、目取真俊の短編小説「希望」を引用しながら沖縄の痛みを伴う状況が作中主体の身体で引き受けることを動詞の時制から読み解いたり(スピヴァクはもしかすると日本語テクストで「希望」を読んだのだろうか。だとすると凄まじい徹底ぶりだ)、「今オキナワに必要なのは、数千人のデモでもなければ、数万人の集会でもなく、一人のアメリカ人の幼児の死なのだ」という一節を引用し、日本政策研究所の所員が「希望」の主題にアメリカ人はショックを受けるだろうといっていたエピソードを紹介している。これは簡単な話ではなく沖縄で行われた在日米国軍人の犯罪を踏まえたうえでの感想であり、スピヴァクは「希望」のなかで島民のすべてが極限的なものの比較と呼ぶものに感応しているわけではないというバランス感覚も語り手によって語られていることも踏まえている。また、物語の冒頭の無邪気さがショッキングといわれる主題を巧妙に隠しているということも示唆している。バランス感覚やレトリックにより、テーゼ化しすぎず文学作品として成立しているということをいいたいのだろう。

 日本はいまだに島国である。世界で何が起きているのか、根底には何が対立しているのかマスメディアではまったくわからない。ましてや旧来のマスメディアではないキュレーションマガジンや動画再生サイトではより一層わからず、最悪フェイクニュースなどの陰謀論が渦巻いている。一方でいまだに日本は“先進国”でありグローバリゼーションを推進している側である。スピヴァクが沖縄を重要視したのはそこにある。日本の一番近いところでグローバリゼーションと学問的アクティベーションが拮抗している場だからである。沖縄学というスペシフィックな領域からすると歴史的に沖縄は常に微妙な立ち位置に立っており、本州に住む人々がそれらにいかに無自覚であることがわかる(大江健三郎『沖縄ノート』などはわかりやすく真摯に語られており、手に取りやすい)。今現在も国防や地政学などによって複雑化され、また間接的で観測しにくいグローバリゼーションに晒されている。スピヴァクは人文学について詩や小説を書かないひとのためにあるといった。真意は推測することしかできないが、おそらく生活者がアポステリオリにコロニアル的なものを知覚するツールといった意味だろう。教育者はそれらを推進するということで、学問的アクティベーションをなすのである。他方で沖縄文学の隆盛は詩や小説を書く人が学問的アクティベーションを活発にしているということである。スピヴァクは本書でダブルバインドという言葉を多用したが、あり得ないことだが完全に帝国主義や啓蒙主義的なパターナリズムが世界から消失したら、学問的アクティベーションや抵抗詩のような文学は今とは違った形になるのだろうか。そんなことをぐるぐる考えながら本書を読み終えた。