春の歌、野蛮さ

  プーチン大統領によるウクライナ侵攻は連日深刻さを増す一方だ。しかし、日本でいわゆる平和な日常を送っている私は、ウクライナの歴史的政治的な複雑性を知るのに報道と書籍とドキュメンタリー映画に頼るしかない。黒川祐次著『物語 ウクライナの歴史 ヨーロッパ最後の大国』はスキタイの騎馬が駆け巡り、古代ロマンあふれる黄金の装飾品、匈奴の侵攻など世界史のおさらいになった。キエフ・ルーシーの建国の件はそもそもモスクワはキエフ・ルーシー公国から分裂したにすぎないこと、さらにコサックの勇猛さ、ロシア・オーストリア帝国の支配、ソ連、独立……と一気におさらいできる。スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ著『戦争は女の顔をしていない』はウクライナというよりは第二次世界大戦でドイツが東欧に侵攻したときに従軍した女性たちのルポだが、状況は違えど同じ地で戦争が起きていると、違うものとしてみれない。もちろんクラスター爆弾や気化燃料爆弾と機銃掃射や戦車での電撃作戦という違いはあるし、周辺国家の対応も(犠牲の悲惨さに何も異なることはないのだが)異なる。あとはネットフリックスのエフゲニー・アフィネフスキー監督『ウィンター・オン・ファイヤー ウクライナ、自由への闘い』を視聴した。二〇一三年にヤヌコヴィッチ大統領がEUとの協定の調印を見送ったことに端を発し、反政府デモが発生した。デモから暴動になり、解任に追い込まれるまでの九〇数日間のドキュメンタリーである。ベルクトという特殊任務にあたる警察組織の過激な鎮圧や、故意に暴動を扇動した可能性、そして映像作品以外にも中国やロシアの関与などいろいろな疑惑がある。しかし、そんな泥沼化された状況のなか市民が血を流し民主主義を勝ち取ったというのは、印象深かった。私の乏しい読書力では現時点ではこの程度の理解が精一杯である。ゴーゴリ・ニコライ著『ディカーニカ近郷夜話』の豊かな自然と奇想を思い出したり、『死せる魂』の内容が思い出せなかったり……そんなところだ。

 岩波書店「図書」(二〇二二・三)で柳広司「早春の賦」を読んで、文学はたまに予言めくことがあり怖いと思わされた。散文の題名通りネコヤナギの話ではじまるかと思いきや、「アウシュビッツ以降、詩を書くことは野蛮である」というアドルノの言葉を引用しつつ、「日本の文学者が水ぬるむ早春の訪れを無邪気に言祝ぐ行為もまた、フクシマ(フクシマに傍点)以降、野蛮と目される可能性を排除できなくなったからだ。」と述べている。原発の安全保障的な弱さを東野圭吾『天空の蜂』が小説的思考実験として描いたことや、政治的にも原子力発電の脆弱性が容認されていたことを挙げている。以降安倍晋三内閣のもと原発推進を方針転換させつつも、東京五輪誘致や秘密保護法、安保法を強硬に進め平和主義を脅かしたのに国民は支持し続けたことに対して、戦後英米文学者の中野好夫が誰が一番の戦犯か問われたことに対して自分の名前を挙げたことを紹介して結んでいる。タイムラグがあり「早春の賦」以降さらに情勢は悪化しているといえる。もし、今「早春の賦」を執筆しているならさらに頁数は増えていただろう。それにしてもこの国際情勢下に通じる内容でドキりとさせられる。

  革命の、革命のため流す血の、ドファルジュ夫人のこけし頬骨 貝澤駿一「かりん」(二〇二二・三)

  万歳はたぶんするだろう戦地にもたぶんいくだろう長男だから 丸地卓也「かりん」(二〇二二・三)

 かりん誌を読んでいて柳に感じた予言めいたものを再び感じる。貝澤作品はディケンズ『二都物語』を詠んだもので、ドファルジュ夫人はその登場人物だ。フランス革命が題材の歴史小説だが、革命という思想のために生身の人間の血が流れている。それを編む女としてのドファルジュ夫人は見聞きして青ざめているのだろう。貴族政治から自由を民衆の手につかむが、『レ・ミゼラブル』で知ったが、王政はまだ残っておりその後六月暴動が勃発する。拙歌も引用した。「かりん」は歌稿の送付から掲載まで二ヶ月ほどタイムラグがある。二ヶ月前の筆者は第二次世界大戦下の日本を考えていた。検閲や大政翼賛的な雰囲気のなかで葛藤した歌人の戦争詠に惹かれ、また導かれるようにして、過去となった戦争をどう引き付けるか、また在日米軍基地(沖縄だけではなく)の問題について考えていたのである。それぞれ作歌の動機はそれぞれ異なるにせよ、二ヶ月前から世界はキナ臭かったのかもしれない。

 柳は「早春の賦」で書かれた状況下から生じる罪悪感からは死ぬまで逃れられないと述べていた。アドルノや柳によるなら文学を通じて今の世界情勢と接続することは、時事詠を詠むことは野蛮であることということになる。批評がズレたり、ステレオタイプになって文学として機能しなかったり、野蛮ゆえに事実に押し返されることもあるかもしれない。ただ現状を打破して何かを掴んできた人類の営みのひとつとして文学があるとすれば、その野蛮さは妥当なのであろう。