小高賢著『老いの歌 新しく生きる時間へ』を読む

  超高齢社会から多死社会へとシフトしている昨今だが、一般的には何がサクセスフルエイジングになるのだろう。高齢になっても生き生きと社会的役割や余暇を楽しむということなら中谷宇吉郎が『中谷宇吉郎随筆選集第二巻』所収の「老齢学《ゼントロジイ》 長生きをする学問の存在」(一九六六・八/朝日新聞社)で当時の国際雪氷委員会前会長チャーチ博士が八十二歳にしてヒマラヤの積雪調査のためにアンデス山脈を六カ月も歩いていたというエピソードを紹介している。そのうえがいるとしてミシガン大学のホップス博士が九十一歳で自身の論文の反論がないことに不満を抱く若々しさや、ノースペンシルバニアに旅行に行くというフットワークの軽さを挙げている。中谷の時代から老齢学は注目されており、現代からみてもサクセスフルエイジングだといえる事例である。現代の視点からみて物足りなく感じるのは、紹介されている事例は超人的であり市井のひとの老いは反映されていないということである。実際中谷は当時の大衆のなかに五十代で老け込んでしまうひともいることを随筆中に述べている。前置きが長くなった。小高賢著『老いの歌 新しく生きる時間へ』は老いの歌に注目したものである。小高が引用している歌人や総合誌の特集などで老いの歌は何度も注目されてきたが、『老いの歌 新しく生きる時間へ』の第一刷は二〇一一年である。介護保険法が施行され十年とちょっとの年に、専門家人から新聞歌壇に投稿されるような歌にまで幅広く老いの歌という目線で迫るのは慧眼である。

 小高は序文で老いとは発見されるものとしてみている。短歌史において八十、九十まで生きるというのは稀なことであるし、おそらく文化人類学等の分野の学説だろうが二十世紀に人間や社会における三つの発見があり、無意識、未開、子供という領域であることを紹介し、二十世紀後半からの発見として老いも未知の後半な領域であると述べている。


  のび盛り生意気盛り花盛り 老い盛りぞと言はせたきもの 築地正子『みどりなりけり』


 この歌を引用して「老いみずからが自分の内面をのぞいていることが特筆すべきことなのである。みずからの老いを眺め、考え、悩み、短歌で表現している」と評し、小高はこの歌に限らず老いの歌はとても元気がいいとしている。先に触れた中谷のいうような高齢者が、社会の進歩で増えている時代である。チャーチ博士やホップス博士ほどではないが、匹敵する高齢者が現代社会には多くいる。


  最上川逆白波《さかしらなみ》のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも 斎藤茂吉『白き山』

  欠伸《あくび》すれば傍にゐる孫真似す欠伸《あくび》といふは善なりや悪か 『つきかげ』

  不可思議の面《おも》もちをしてわが孫はわが小便するをつくづくと見る


 小高は斎藤茂吉『つきかげ』は『白き山』よりも粗く、多くの人(例として上田三四二)が『つきかげ』さえなかったら……と述べることに触れている。小高が引用した歌を読むと確かにだいぶ違う。小高は『つきかげ』の歌をユーモアがあり、よい老いの歌だと評価しているが、筆者も最上川の逆白波よりも茂吉翁と孫の生真面目からくる面白い雰囲気のほうが人間味があって面白いと思う。むしろ現代の歌人においては後者のほうがファンが多いのではないかと思わされるほど面白い。このあたりの評価をめぐる変遷も小高は考察している。歌論としても読みどころがあるし、これから短歌を始めようとする高齢者も、短歌は難解なものではなく俗な部分も出していっていいのだと勇気づけられるだろう。本書は岩波新書である。当然歌人が読むというよりは一般の読者を想定している。内容的には日々短歌に接する歌人も楽しめるものなのだが、随所に例えば自分が短歌に興味をもつ高齢者だったら背中を押されるだろうと思わされる一節がある。小高は序文で、短歌は紙と鉛筆と辞書があればでき、老いの歌は社会福祉的観点から見直してもいいという実用的な側面について言及している。本書をもってして短歌によるサクセスフルエイジングを願ったのかもしれない。