松岡正剛著『うたかたの国 日本は歌でできている』を読む

  帯に「歌を忘れた日本人のために」、「物語も、日記も、茶の湯も、屏風絵も、信心も、国学も、日本はいつも歌とともにあった。」と書かれている。折口信夫の『国文学の発生』などからうかがい知れる呪言の時代、万葉集で知られる古代から、狂歌隆盛の近世、国学の幕末、そして近現代と確かに歌はその他の文化と絡み合いつつ脈々と歌い継がれている。松岡は他ジャンルの知を吸収し編集し発信している知識人という印象があるが、本書も歌に関して人文学的知を踏まえながら、現代のポップスや外国文学、社会システム論など幅広い視点もある文学論がリミックスされている。

 松岡は歌以前の音声の話で「まず、山や鳥や魚のたてる音があった。そのナチュラル・サウンドはカミでもあるし、信号の原型でもあった。東南アジアでは「ピー」といい、中国ではこれを「気」といい、日本では「もの」といった。「もの」は霊である。」と述べている。音の発生はその後の文化に色濃く影響を与えていることに読者は気づくだろう。たとえば「気」は東洋的な自然科学のルーツともいえ、中国文明が早くに発展したのは気の見立てから始まっていたように思える。「もの」は例えば内藤湖南が『大阪の町人学者富永仲基』(一九二五・八/大阪文化史)で富永仲基が学問に国民性があることを説いており、中国は文で日本は質であるとして、中国は文飾を好むが、日本人は目まぐるしい回りくどい奴にぶつかるとわからなくないため、手短なものが好まれるとしているとしている。「もの」は霊であり、その後分化して幽玄、艶、粋に発展する一種の気分なのである。松岡はそこまでは述べていないが(リミックス前はもしかしたら言及しているかもしれない)、「気」、「もの」の書きぶりは暗に問題提起しているのである。


  あかねさす 紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る 額田王


 万葉仮名の松岡の捉え方も面白い。本書では「万葉仮名システム」と述べている。引用歌について〈紫野行き〉は万葉仮名で〈武良前野逝〉である。「むら」は漢字の音を借り、「さき」というのを訓読みから持ってきているという複雑な使い方をしている。〈振る〉は〈布流〉で布が流れるというイメージを利用している。漢字の日本語的な使用である万葉仮名システムは不完全で、「日本人の気持ちや日本文化を表現するには、まだふさわしくない。」と述べており、次のページに日本語の成熟について書かれている。枕詞、係り結び、歌枕などが縁語のネットワークを構築し和歌や連歌のめざましい情報システムになっていくという。もちろんその中には「かなシステム」も乗り入れ、『和漢朗詠集』のような漢文学システムも輸入されてくるのだろう。言語の体系をシステムと表現したところに眼目がある。また、文字表記以前の語り部の時代は、語り部の原型記憶を共有するヴァーチャルトポスと表現している。社会システムならぬ人間が記憶媒体や編集端末になり何代にもわたって発展継承させ拡大していったという、文化システムが古代に存在したということになる。そこまでして人は詠わずにはいられなかったのだ。

 そのほか人形浄瑠璃や能楽、また阿弥を号するアウトサイダーたち、そして斎藤茂吉、塚本邦雄などの近現代の作家まで独自の視点と、先行する文献のネットワークで最後まで興味深く読める一冊である。リミックスという体裁からか、短編の論稿が連なっているので、いい意味で間隙がある。そこに読者は新たな問題提起と共感ができる。編集者は歌人で、松岡もプロフィールにこっそり俳号が書かれている。なるほど、本書は俳人歌人の共同作業による一冊で、実は著者も編者も「歌でできている」ということなのか。