森敦著『意味の変容』を読む

  寓話に仕立てあげられた哲学という読後感がある。その哲学も森が数学が好きであると巻末の「意味の変容 覚書」にあるように数学の要素がある。本書は「寓話の実現」という章で、のっけから「壮麗なっものには隠然として、」と始まる。壮麗なものとは邪悪、怪異、頽廃、崇高、美麗、厳然と反対概念を包括した全体概念であるという。さて壮麗なものとして登場するのは蛇である。二種類の蛇、類も稀な壮麗な蛇、そして壮麗なるに似た無数の蛇が出てくる。類も稀な壮麗な蛇は賢明に森に身を隠し、その姿は幻影を生じさせるほどであるらしい。牙には敵を斃す毒が秘められている。壮麗なるに似た無数の蛇はそれらがない。壮麗であると思い日の当たるところに出て、挙句の果てに人間に切り刻まれるのである。森は蛇を例にだし貴なるものと俗なものの二元論を展開させたいわけではない。さらにいうと壮麗なるに似た無数の蛇は議論の俎上にない。類も稀な壮麗な蛇は自身のなかに幻術があると思っていたが、幻術の中にあろうとしているというのだ。わかりにくい寓話だがそのはずである。次の章「死者の眼」の劇中劇ならぬ寓話中寓話なのだから。

 「死者の眼」は工学会社で照準器をつくっている主体が登場する。「内部+境界+外部で全体概念をなすことは言うまでもない。しかし、内部は境界がそれに属せざる領域だから、無辺際の領域として、これも全体概念をなす。したがって、内部+境界+外部がなすところの全体概念を、おなじ全体概念をなすところの内部に、実現することができる。」ということが壮麗な蛇のエッキスのようだ。「意味の変容 覚書」によると数学でいうところのトポロジーらしい。本書を通しで読んでいるときは雰囲気で分かった気になっていたが、改めて読み返してみると前半しか理解できず、全体(全体概念の問題だけに)の内容となるとちゃんと理解しているか心配になる。筆者の数学の素養がないからかもしれない。

 さて、文芸の話なら多少分かる。主体の工場は戦闘機の機関砲の照準をつくっている。照準眼鏡は倍率一倍の望遠鏡を利用したもので、覗くことで外部(ターゲット)は焦点面上に実現される。つまり、倍率一倍の望遠鏡に十字を刻んだ焦点鏡を置くことで、照準眼鏡となるのである。本書では「望遠鏡によって得られた外部の実現が、見た眼の現実と接続するとき、その倍率を一倍という。」といっている。そして文芸の話になり「外部の実現が内部の現実と接続するとき、これをリアリズムという。」と展開させている。光学の話から次第に文芸めいてきたところでさらにオチになっているのが、照準眼鏡は一倍の望遠鏡といいつつ実際は一・ニ五倍なのであると種明かしされる。正確に倍率一倍だと物が小さく感じられて接続しないような気がするらしい。そしてリアリズムも多少の誇張がいるといい「われわれのリアリズムは倍率一倍と称する倍率一・ニ五倍である。」とオチるのである。

 さてここまでで全体の頁数の三十パーセントほどである。様々な形で思想や文芸のメタファーを潜ませながら物語は進む。森は本書の舞台になった光学会社、ダム会社、印刷会社いずれにも勤め、傍ら文筆活動をしていた。森が実際に身体で感じ、発展させた思索だったのである。「勤めてなにかを得るためには、わたしにもその十年がかかったというまでのことである。」と森は述べているが、生業から長い時間かけて思索を発展させていく文芸家の態度は、同じく生業と文芸と二足の草鞋を履く筆者にも興味深い。

 本ブログを書いているのは月曜の深夜であり、まだ一週間は長い。明日から心新たに生業から文芸を見出さなければならないのでここで筆を置きたい。