批評がわからない

  筆者に批評コンプレックスがあるのは間違いない。大学に入ったときに研究法の授業で批判的思考をもってして物事に接すべしなど習って以来は我流で批評ごっこをしてきた。よって文芸批評などよりわからず、精神分析学的批評(元心理学徒なので精神分析学自体は齧ったが)、脱構築批評などいわれてもちょっと他人事である。しかし、雑誌で時折散文の依頼を頂戴するものだから、なるべく熱心に勉強してうんうんと論点を絞りだして書いている。一方で、SNSの「いいね」や、論争を見かけない昨今は物事の本質が見えてこないような気がしてやきもきもする。漠然とした肯定は毒にも薬にもならないと思ってしまうのは筆者が古い人間だからであろうか。前置きが長くなった、府中でgekoの会の会合の前に読もうと購入した加藤典洋著『僕が批評家になったわけ』について何か書きたいと思ったのだ。なんとなく手にして良書に出会うのは読書の神様に感謝するしかないが、実は本書を手にしたのはテリー・イーグルトン著『批評とは何か イーグルトン、すべてを語る』に挫折したからだ。イーグルトンの語る英国は訪れたことがなく(そもそも外つ国に行ったことがない)、また英米文学の素養もないので読むのに苦慮したのだ。

 で、批評とは何かという話なのだが、加藤は本を百冊読んでいる人間と勝負するのに、自分も本を百冊読んでそこに書かれたものの良し悪しを云々するのは学問とどこが違うのか、本を百冊読んでいる人間と、一冊も読んでいない人間がある問題に対して自分の思考力を頼りに五分五分の勝負ができるのなら面白いのではないか、と批評について語っている。ニュークリティシズムも踏まえての批評観なのだろうが、一読者としては勇気づけられ何やらもりもり批評する気になってくる。また、加藤は批評を「ことばで出来た思考の身体」と表現しており、批評に対してすそ野を広く持っていることは、後に批評の酵母が吉田兼好の『徒然草』にあるという視点にもみられる。第二章は批評の酵母と加藤が称する、日々接する物事に存在する批評といったものが紹介されており、手紙・日記などの文学にも包摂されうるジャンルや、科学論文、名刺、マンガなどが取り上げている。広く批評の裾野を広げて、続く第三章の「批評の理由」、五章「批評の未来」と深く切り込んでいくのだが、乱暴にまとめると小林秀雄以降の批評界の難解化を省みつつ、哲学のなかで知る人ぞ知る書き手であった内田樹がホームページで記事を掲載したことをきっかけに書籍を数多く出版した経緯や、内田の在り方を『徒然草』の兼好と並列して紹介するなど、多様な批評家の在り方や、世間(ポピュリズム的な)の淘汰力への警鐘などが示されている。平明にかつ広く深く批評に触れられている本書は良書だろう。しかし、本書を手に取るような人は加藤が語る批評の価値を、それまでの読書経験で享受してきた読者が多いのだろう。高橋源一郎の解説もいい。

 影響されやすいので正宗白鳥著『空想と現実』を読み始める。これも『徒然草』成分のある書籍である。昭和十六年発行なのでまだ戦争の気配が色濃い。正宗の惰眠をむさぼらないようにコーヒーを飲むことや、手慰みに小説を読んだり新体詩をつくったりする文士生活や老いについて思考を巡らすようなエッセイがいかにも近代文学的で面白い。しかし、「空想の空はよかつたが、空襲の空は怖ろしい。コーヒーなんかで午睡の目をさまして、何か高遠なものを待つてゐるつもりでも、それは人間の氣取りで、空襲の防禦に、避難所に、穴でも掘るのが我々の現實であるか。」と「朦朧たる心境」というエッセイでは締められているので、当時の作家の閉塞感を感じる。さて、最近筆者が興味をもっている能についても正宗白鳥は取り上げている。正宗白鳥は能は謂れを聞いてから観ると「悠長な演技振りに含蓄があるのだ」と自然に妙味が感ぜられだしたと述べている。また、型についても「古人の型を守ると云ふのも、一つの心構へだけで、個々の演技者の心は生きたものだから、おのづから個性を生かし、時世とともに絶えず動いてゐるのであらう。」とも述べている。前者は夢野久作の能楽観のような少しお気楽な態度でいいし、後者は馬場あき子先生が型は砥石であるなどと言っていたことを思い出した。『空想と現実』を読んでいると正宗白鳥と趣味が合いそうな気がしてくる。吉田兼好も松尾芭蕉も北原白秋も足三里というツボに灸をすえるといいという随筆や句、歌があり、筆者のなかで足三里は文士のツボという認識があるが、正宗白鳥も足三里に灸をすえるタイプの作家だと勝手ながら思う。何が言いたいかというと、加藤が批評は読んだ本の冊数を超えて成立すると述べていたが、それ以上に時空も超えて成立するものなのかもしれない。