デュープロセス

  アマンダ・ゴーマンを知ったのは米国のバイデン大統領就任式の報道を見たときだ。当時は就任式に詩の朗読の時間をつくるとはバイデン大統領は文化に対して理解があるし、トランプ前大統領とは対照的だな程度にしか思わなかったと記憶している。実際にアマンダの詩も日本のメディアは一部分しか取り上げておらず、訳がいまいちだったので、多様性が主題で、でも政治に凭れている気もするという印象であった。アマンダ・ゴーマン著、鴻巣友季子訳『わたしたちの登る丘』が上梓され手軽に作品を読むことができるようになった。声は断片的になるし、消えてしまう。文字になるとしっかり読めるので有難い。


  朝が来るたび、わたしたちは自問する。

  どこに光を見出せるというのか?


 導入部分は比喩的に閉塞感を表現している。アマンダの活動領域から察すると国内の人種差別が主だと思うが、まだ導入部部であるし、聴衆の肌の感覚としては気候変動や経済成長の低迷や世論の分断なども想起してよさそうだ。詩歌で考えると穏当な導入という感じだが、朗読で伝えなければいけないので詩的言語と読者に届きやすくするための平易さのバランスを考慮したのだろう。


  わたしたちはこういう国と時代を継承していこう。

  奴隷の末裔にしてシングルマザーに育てられた娘も、

  大統領になる夢をみられるような。

  と、思えば、その子はいま大統領に詩を暗唱する役まわり。


 訳者解説によると「マイノリティの若い表現者が、多人種多文化の強大なアメリカという国家の大統領就任式で(特に白人優位主義と、それに抵抗するBLMなどの反対運動の対立が深まっていた数年間の後に)力強い「声」のメッセージとして「全世界に」届けたものである。」と書かれており、引用した箇所はマイノリティの若い表現者を語る場面になっている。訳者の解説で十分なのだが、短歌的に細かく言葉に着目すると〈継承〉という言葉は対立で混沌としつつも〈光〉が全くないわけではないことを示唆している。まだ継承し改善する余地があるということだ、そして〈その子はいま大統領に詩を暗唱する役まわり。〉と自己戯画化している。この自己戯画もマイノリティであるアマンダが〈大統領に詩を暗唱する〉という社会的に承認されたポジティブな部分と、〈役まわり〉という含みのある言葉で構成されている。〈役まわり〉というのは本来は多様性のある社会は当然で、わざわざ文学的にアクティベーションする必要もエンパワメントする必要もないが、残念ながら存在するので詩を暗唱する〈役まわり〉を果たしますという読みや、純粋に照れからくるユーモアが、混然とした含みだと思われる。そうして詩は「過ぎた日に歩みを戻すことなく、/わたしたちは明日に向かって進む/(略)/わたしたちはどんな脅しにも、背を向けず、/引き返しもしない。」と起承転結の承が終わる。


  わたしたちは黄金《こがね》の陽《ひ》に染まる西部の丘陵地で立ちあがる!

  風の吹きすさぶ北東部、昔々に先祖たちが初めて革命をなしとげた場所で立ちあがる!


 このように中西部、南部と米国各方面が文学的修辞とともに、変化をつけつつ対句のように後半は歌いあげられる。この高揚感のなかで、多様でありながら実直な国民があらゆるところで手を携えながら国を建て直す、暗がりから踏み出そうとさらに歌いあげられる。その場に居合わせなかったが、詩ともエールともいえる後半部分に聴衆は胸を打たれたのだろう。『わたしたちの登る丘』を読んで主題はアマンダの問題意識と合致しているし、多くの読者・聴衆を得たということである意味成功した。しかし、本書を読んでどこか奥歯に物が挟まるような感覚を覚える。それは主題がわかりやすい詩が大統領の就任式で朗読され、大統領の目指す米国像を補強するからである。きっと暗喩だらけの難解な詩や、デカダンな詩ならそうは思わない。就任式の空気もポカーンとなるだろうが。荒川洋治は『文学は実学である』(二〇二〇・一〇/みずず書房)で、文学の実学的なはたらきについて「この世をふかく、ゆたかに生きたい。そんな望みをもつ人になりかわって、才覚に恵まれた人が鮮やかな文や鋭いことばを駆使して、ほんとうの現実を開示してみせる」、往年の名作を挙げつつ、「なんでもいいが、こうした作品を知ることと、知らないことでは人生がまるきりちがったものになる。それくらいの激しい力が文学にはある。」と書いている。しかし、荒川がいうのはあくまで読者が作家や作品に偶然であったり、取捨選択したりしながら精神の血肉にする過程である。一国の首長の就任式で聴かれ読まれるのとは異なる。

 実学としての文学も政治が絡むとデュー・プロセスが気になってくる。